編集しながら生きている

 ある日を境に「人生とは編集である」と妄執し、それが即席に学んだ仏教思想と結びついているものだから、いま私の人生観はたいへん面倒臭いことになっている。酒の勢いでもなければ人に話すこともないが、良寛も「盗人に、取り残されし窓の月」と詠むような月が綺麗なこの秋の夜更けに、その私見について綴ってみたい。

 

 “Stay hungry, Stay foolish”というジョブズの2005年スピーチは、10年以上経過してもなお私たちを突き刺す何かを孕んでいるが、しかし私の心に深々と刺さった彼からのメッセージはむしろ"Connecting the dots."の方だった。
 誰が点を打つか、といえば現在の私である。誰が点を繋げるか、といえば未来の私である。いま私にできることは新しく点を打つことか、昔打った点といま打った点を繋ぐことしかない(一次元の私・二次元を想像する私)。聡く世情に明るい者たちは、さながら盤面のごとく将来の自分を思い浮かべるや布石を打ち、大事を成し遂げて行くが、果たしてそのやり方は私を幸せに導くだろうかと疑問に思った15の夜、爾来私はその布石の打ち方を棄てている。

 

 未来に成るべき高い理想を掲げ、その理想に立ち塞がる困難を分割し、そのための努力を積み重ねるというバブル時代のスクエニRPGを未だ唯一の人生の物語だと賞賛している人がいるならば、その理想を他人に押し付けた瞬間に平成世代の8割は離脱する——と思ってしまう。世代論を展開したいわけではないが平成を田舎の子供(私)目線で振り返ったときに、ネットとスマホサブカルチャーの進展しか見えなかったなあ、と思うのは軒並み産業が停滞、衰退するのを眺め、政治家も何か本質的じゃないところでマスコミと罵り叩き合い、学校教育もゆとりださとりだと飲み会の肴にされ、そりゃ宇野さんもサブカルチャーしか語ることがないような現況に対しての諦観である。

 

 今日、共通しているのは「どうやら未来は明るくないぞ」という認識であり、それを「俺が未来を明るくする」のか、「みんなの未来は暗いが、俺の未来は明るい」とするのか、「俺の老後まで逃げられればいい」のか、「どうせ未来は暗いのだから、今日を刹那的に楽しく生きよう」とするかは、個人の人生プランと生存戦略に委ねるとして、仮に今同じゲームをプレイしているとすれば、「共通のハッピーエンド及びクリア条件」が見えないゲームである。

 

 ここで矛盾するようだが、個人的には人生をゲームだとたとえるやり口は好きではない。受験は合格点を勝ち取るゲームだと勝ち誇る奴らも、恋愛は女を手に入れるゲームだと豪語する奴らも、仕事は金を掴み取るゲームであり、それには効率のいいテクニックがあると宣う奴らも、またそれに釣られる奴らもやはり好意を向ける対象ではない。
ゲームという言葉に含有されるのは、ゴール(勝利条件)とルール(制限)である。その両者が現れたとき、効率もまた姿を現す。ゴールを一直線に目指すゲーム=効率と定義してみれば、人生をゲームとみなすこの虚しさも分かるだろう。人生に最終目的地なんてない。ではサブクエストを次々とこなして行くことが人生の正体なのだろうか?

 

 私の問いは「ハッピーエンドはどこにある?(by大瀧詠一)」ということである。勉強を、恋愛を、仕事を、何かゴールに到達するための制限付きゲームだという主張に共感し得ないのは、それに到る効率を突き進めていった先に手に入るものの虚しさである。金、女、地位、学歴、承認、それらに執着することの空疎。それらを最小の努力で、もっとも効率よく求めようとする虚しさ。そこに立ち現れるのは、それさえ手に入れたら無条件で今の私より幸せになれる、という人間理解のダサさであり、またその欲望を利用して人々を煽る個人・産業のしょうもなさである。

 

 バブル崩壊後の世界、失われた20年だか30年だかに産み落とされた私たちが目にしたものは、物は溢れているのにどうも幸せそうに見えない、という矛盾であった。先行世代がロストしたものは、どうやら共通の目的(敵)であり将来への希望であろうことがなんとなく伝わってきた。この時代を総称して、「クリア後の世界」という玲司先生の言葉が一番しっくりきてしまうところに悩みの種がある。よく若者は〇〇を消費しない(〇〇にはスマホゲーム課金以外のすべてが入る)と言われるが、ギリ若者の私に言わせれば、先行世代がそれを真剣に楽しんでいれば、自然に子供は欲望するようにできている。若者の〇〇離れと定型文を使う前に、大人の〇〇離れに注目した方が面白い。

 

 クリア後の世界を生きる私たちは、第一に共通の目標を持たない。少なくとも物質的に満たされれば、精神的にも満たされるなどとは毛頭考えていない。ここに昭和平成の確執がある。ここでは「松本紳助」における紳助の言葉を引こう。「物を作って売るというのは——みんなでテレビが来たって大騒ぎして、それが二台売ろうと思ったら子供部屋にも置かなな、それでまたテレビもっと売ろうと思うから核家族にしていってんバラバラに。物を売るために。一人の人間にいろんな物を売って、もういるもんないやん。これ以上物を作って売るという時代やないんや。それが当たり前になった瞬間に人間ってのは不平不満なんねん。みんな持ってる、みんな行き渡ってる。だから幸せなんて感じひんねん。もう終わりやねん繁栄は。心の豊かさを求める時代や。自分だけの価値観を見つけて、心の豊かさを感じんねん。いまケイタイやとか、パソコンやとか、家やとか、車やとか、みんな同じ方向むいてるやろ、でも心の豊かさは各自ちゃうからいろんなもんできんねん。みんな意識してへんけど、だんだんそれに気づいていってん」

 

 こうした紳助の言葉は、彼だけでなくメディアを変えていろんな著者から言われてきた。次は情報を売る時代だ、なんて言う人もいる。影響力を伸ばす時代だ、なんて言う人もいる。「飢餓・病原菌・戦争」を克服した人類は次にどこに向かうのか、というハラリの『ホモ・デウス』(は読書中なので別の機会に)のような次世代攻略本が続々と出版されている中で、いま共通の目的に向かって若者を鼓舞するには無理がある。学校教育も何か次世代のゴールを目指して優秀な人材を人工的に生産しようとした瞬間に、適合しようとする若者とそれに抗う若者の間に取り返しのつかない歪みをつくり、その歪みは相互信頼の原理原則を破壊し、数年、数十年後の国家をボロボロにする。

 

 ここで言いたいのは『サピエンス全史』の力を借りて、人が一致団結するときには共通の目的や敵のような虚構を必要とすることに何ら異論はないことである。それを前提として、もはや現代は戦争や経済成長などといった全体をまとめ上げる分かりやすい共通目標はないということである。安倍政権を打倒しようと共通ゴールを持ち、一致団結する人たちがいる。しかし仮に打倒した後のビジョンはおそらくバラバラである。現代の首相が大変なのは、どんな公約を掲げてもそれは共通目標になりえないということだ。ならばバラバラにさせる方が現実的かもしれない。

 

 物を売るために、家族はバラバラになってしまった。かつては何もない我が家に電化製品を買ってくる父親は尊敬されていた。家族全員で豊かになろうという気概があった。いまや父親に尊厳はなく、他の父親と比較考量することでしか偉大さを測れないのならば、9割の父親は脱落するだろう。それぞれがスマホで自分の世界を楽しんでいる。
 会社でも一致団結の気配がない。各自豊かさの定義が違うのだから、飲み会に参加しない若者がいても不思議には思わない。だがあの手この手で上司と部下はコミュニケーションを図るべきなのは間違いない。社内における血流が良好でなかったら、社外に発生する関係も良好とは思えない。ただ、当たり前のやり方は見直す時期にきたのだ。

 

 ジョブズよりもまだ年齢が近いザッカーバーグの2017年スピーチでは、“I’m here to tell you finding your purpose isn’t enough.”という言葉が印象的だった。そして、“Creating a world where everyone has a sense of purpose.”と。凄腕の経営者を無条件で賞賛するほど意識は高くないが、彼の問題意識には納得できる。おそらく彼のような目的を創造できる人物が今世紀のリーダーになって行くのだろうし、オーディエンスのハーバード卒業生に求めていることなのだろう。それはおそらく国家規模では不可能なことで、GAFAのような大企業をザッカーバーグは求めているのだろうが、ちょっと市井の私たちにとっては現実味がなさ過ぎる。もっとミニマムなものを想像してみよう。

 

 ネット有名人の間でサロンというのがもて囃されている。ホストは何らかの輝かしいもので求心力を持ち、それら後光にあやかりたい人たちが、同じ能力を身につけたい人たちが、あるいは応援したい人たちが集まり、輪を成している。たとえばこれが一つの解答なのだろう。家族でも、会社でも、国家でもなく、その中間にある共同体。いまはまだおどろおどろしいけれど、弱者と身体性と相互扶助関係が備わったミディアムな共同体が誕生して行くことは、さもありなんといったところである。さながら心の豊かさ目的別の共同体という夢想である。

 

 目的というのは可能性のことだ。「可能性をもってこい、可能性をもってこい、」と叫ぶデンマーク人よろしく、絶望には目的で対応せよというのが賢者の教えである。しかし散々述べてきたように共通の目的がない世の中に突入していて、それに係る先行世代の目的の押し付けこそ厄介なものはない。欲望はバラけて行く。リーダーが担うのはまずは自分がご機嫌に生きているという事実であり、それから他人を下げ落とすこともなく、金・女・権力といった分かりやすい利益誘導でもない目標を掲げることである。生き生きとしたその立ち振る舞いに後進は触発される。

 

 人生とは今まで通ってきた道の轍のことである、という考え方がある。未来は明るく(あるいは暗くとも)、一歩ずつ歩いた軌跡を人生と呼ぶのだろうか。視線の先にゴールは見えているのだろうか。長い道のりも電柱を数えればいくらか気が紛れるように、中間地点を設定して歩くのだろうか。そうかもしれない。人間とは徒労の情熱である。
 一方で別の考え方がある。「人生とは目的によって編集できる」というのが私の人生観の最新バージョンだ。道元禅師の説教に「仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり。」という言葉がある。仏道というのは、自己を究明することであり、それはすなわち自己に対する執着を忘れることである。

 

 仏教の縁起は、自分という存在が、その時々の周囲との関わりによって移り変わって成り立つことを教えている。特にブッダは、固定的な我に執着することを戒めた。私もそれに賛同している。本を読む、旅行をする、人と会う、環境が変わる、新しい情報や関係によって私は常に変化している。それは再編集、といってもいい。今までの自分がすべてリセットされるわけではないからだ。むしろ私はこうであるという決めつけが、新しい関係の繋がりを阻む。私もいい加減思想が強い方ではあるが、新たな関係を阻まないこと、また新たな知見によって自分を再編集することだけは心がけるようにしている。あるいはブッダは(涅槃寂静以外の)目的に向かうことを戒めるが、それは目的に執着すること、何かを達成するためにこれをするという手段、そのための手段、さらにそのための……という執着の連鎖を止めなさいということだ。しかし、涅槃を求めて今すぐ出家しない程度には私は煩悩に塗れている。

 編集思想と仏教思想をどう掛け合わせるか。一つのやり方は、それを手段とせずに目的のように振る舞うことだ。何かするために、例えば幸せになるためにこれをする、という捉え方をしないで、その行為に徹すること(熱中すること)だ。それは現在の座標軸に点を打ち付けることである。その黒点はその瞬間においては意味をなさない。ただ熱中があり、それ自体が目的化した状態だ。そうして点を打ち続けていると、ふとあるとき惑星直列のごとく現在の行為に向かって繋がってみせるのだ。これを私の好きな喩えでいうとブリコラージュ(bricolage)的発想と呼んでもいい。もっと卑近な喩えをすれば、とりあえず何でも冷蔵庫にぶち込んでおいて料理するときに組み合わせるのだ。

 

 この辺りで何となく「人生とは編集である」という意味が伝わっただろうか。つまり人生の意味というのものは、現在から過去を振り返ったときに初めて意味を帯びるのであって、現在には熱中しかないというのが今日までの結論である。そしてこの結論というのも絶対的なものではなく、おそらく今後の出会いによって軽々と覆されるものだ。おいおいヘーゲル弁証法的発想だな、と思うかもしれない。いやむしろキルケゴール的発想に近いかもしれない。何だっていい。おそらく西洋は変わらない統一された自己という問題にこだわり、東洋はそれにこだわらないことを出発点に置いたのだ。今日はこの辺りで筆を置かせていただきます(パソコンを閉じます)。