新年なのでランチェスター戦略について改めて考える

以前、趣味と仕事の違いは何かを考えたことがある。
結論は、俺が先に益することを目指すのが趣味で、客が先に益するのを目指すのが仕事だろうということに落ち着いた。

 

俺が楽しむことを目指した結果、副次的に他者が他者が楽しんだ。これは趣味的活動である。
客が楽しむことを目指した結果、副次的に対価を受け取る。これは仕事的活動である。

俺が楽しんでいたら、客が勝手に楽しみ、その対価が支払われた。これは趣味が仕事になる例である。
客が楽しむことが俺の楽しみだ、なんて言う奴がいたとしたら、これは仕事が趣味になる例である。

 

人間楽しく働こうと思ったら、趣味を仕事にするか、仕事を趣味にするかどちらかを選択すればいいんじゃないだろうか。
たとえば出世が目標だという人は、上司を喜ばせる必要があり、ひいては客を喜ばせることで最終的に自分が益する仕事型。
人とコミュニケーションするのが楽しいという人は、仲間や客と話してたらいつの間にか賃金が発生したという趣味型である。

 

これは結局、俺の好きな手段と目的の話に通ずる。
俺は以前から手段=目的となるように生きることが望ましいとして自分に言い聞かせている。
上記の場合、人を楽しませることが手段であり、自分を楽しませることが目的になる。

 

通常は手段→目的である。仕事をしたから賃金が発生した。勉強をしたから親に褒められた。
あるいは目的=目的である。趣味的行為で俺だけが楽しい、以上。映画を見たら面白い、以上。
通常ならこれで終了である。これで満たされているのなら何も問題はない。
家族のために仕事を頑張る。趣味は趣味として仕事は最低限にやり過ごす。これで別にいいじゃないか。

 

だが、これで満足しない一部の奇特な人がいたとする。
あるいは最近、仕事もつまらないし趣味もつまらないのでどうすればいいのか、と悩む人がいたとする。
であるならばここで手段=目的となるように、仕事的趣味か趣味的仕事に没頭するのをお勧めする。

 

人間、働き始めれば自分がどちらに傾いているかなど一目瞭然だろう。
人に喜ばれるのが好きだ、自分は本当はやりたいことなんてない、物より俺を見てくれという仕事的人間と、
俺自身を楽しませたい、やりたいことしかやりたくない、俺より物を見てくれという趣味的人間に分かれるはずだ。

 

スタートはどっちのタイプだって構わない。
ただ何らかのプロと呼ばれている人たちは手段=目的, 仕事=趣味という領域に到達しているだろうと予想できる。
自身もやっていて楽しいが、同時に客にも喜ばれる技術なり演出があり、両者の視点を有しているわけだ。
どちらからスタートしてもどこかのタイミングでこの壁にぶつかり、ブレイクスルーを経てイコールを獲得するのである。
そんなもん無かったよ、好きなことだけやってたら周りが勝手に評価してきたよ、というプロがいたならば、
よっぽど才能があったか業界構造に救われたか、有り体に言えば運が良かったのだろう。再現性も低い。

 

俺は趣味的人間であるので、仕事的人間がどのようにイコールを獲得するかは想像し難い。
なので今回は趣味的人間について考える。

 

趣味的人間の特徴は人を見ないということである。これは目を見て話さないという意味ではない(それも特徴の一つである)。
人からどう見られるか、どう思われるかを意識しない。俺が良ければオールオッケー。まさに趣味的人間の生き様である。
先述した通り、俺が楽しかったらオールオッケー満足満足なら話は終わりである。言われなくてもそのまま邁進するだろう。
また好きなようにやってたら周りに評価されちゃいました、という才能と時流に愛された人間も悩まず進んでいくことだろう。

 

孤独が悩みなら猫を飼えばいい。あるいはパートナーや子供ができればそんな悠長なことも言っていられないだろう。
だが、それでも耐えきれない喉の渇きがあるならば、そろそろ他人を巻き込むブレイクスルーの準備をしなければならない。
つまりこの壁の前で、趣味的人間はどう人に見られるか、どう人に見てもらうか、という演出を加える必要がある。

 

いや俺もついこの間まで、この演出の部分をかなり軽視していた。そこは本質ではないだろう、と。
見てくれがどうであろうと、形の崩れたお饅頭だろうが中身が美味けりゃみんな食うだろうと。
形を整えるのにたいして興味が持てないのだから、中身を美味くすることに力を注げばいいだろうと。
中身が美味いことに気づけない観光客が見る目がないだけであって、俺が変わる必要はないだろうと。

 

歳を重ねて思ったことは、やはり観光客は見る目がないということである。そして俺もまた観光客なら同じく見る目がない。
旅先に知らない店があって、その中の一商品を手に取ってもらい、それに高評価がつけられ話題に上る確率はどれぐらいだろうか。
人は既に知っているものか、既に誰かが高評価をつけたものぐらいしか手に取ることはない。
ましてや誰も知らないよく分からない見てくれの悪いものなんて誰が手に取るだろうか(反語)。

 

さて表題の件を始めよう。
仮に自分が誰も知らないよく分からない見てくれの悪い趣味的人間だとしたら、どう演出すれば渇きは満たされるだろうか。
たとえば俺は先日4年ぶりにこのブログを再開し、一方で4年ほど一向に伸びないYoutubeを続けている。
これらを自己満足の趣味だと割り切るのも構わないが、これを趣味的仕事にまで昇華させるにはどうすればいいか。
つまりこの自己満足の趣味を、より人に見られ、人を楽しませるにはどうすればいいか考えるのは年初に悪い試みではない。

 

その一つの方針が、今回のランチェスター戦略である。
ランチェスター戦略は元々第一次世界大戦中に研究されたオペレーションズ・リサーチである。
「同じ武器なら勝敗は兵力数で決まる」という前提をもとにした戦略であり、
現代では経営学に応用され、マーケティング戦略における必須知識となっている。

 

ランチェスター戦略は強者戦略と弱者戦略に分けられる。マーケティング分野におけるこれらを見ていこう。
強者のとるべき戦略は追随戦略(ミート戦略)で、要は流行り出してから全力で真似すれば勝てるというものである。
広いフィールドで、人数や広告費をかけ、元々の商品力やブランド力が組み合わさればまず負けることはないというものだ。

 

一方弱者のとるべき戦略は差別化戦略で、力を一点に集中させ差別化を図れば局地的に強者に勝るというものである。
狭いフィールドで、力を分散させず、細分化された領域でNo.1を目指すというものである。

 

深夜にWikipediaを斜め読みしただけなので、どれぐらい確度があるか分からないが、
つまり強者は手広く展開して総合的に勝てと、弱者は一点突破して局所でNo.1を目指せよ、ということである。
逆に言えば弱いんだったら、広く浅くやることはデメリットでしかないと、耳の痛い話である。

 

たしかに、テレビやインターネットで活躍されていている方々を思い返してみると、
総合的になんでもやる > 一点突破で武器が強い > 一点突破で武器が弱い > 総合的になんでもやる
という分布に単純化することができるかもしれない。
既に成功している人強者を真似して弱者が総合的にやろうとするのが戦略上いかに愚かなのかが窺い知れる。

 

おそらく強者も昔からずっと強者だったわけではないだろう。
自分の武器を磨いて、気づけば他の追随を許さない存在になっていたから強者の振る舞いができるのである。
たとえ先行利益だとしても、先行利益者の中でNo.1になったからトップを走っているわけだ。
そこに何か目立つ武器があったからであって、つまり武器もあり人気もあるから何やっても人がついてきているのだ。
ましてや後期参入者が武器も持たず幅広く流行に手を出しても、成果を得ることは難しいだろう。

 

弱者はこの狭い分野ならNo.1はこいつ、を目指す必要があり、
No.1 を目指すことは技術力という武器を持ちながら、それを意図的にアピールする演出力が必要になると考えられる。
好きなことをただ漫然と続けていても旅先のお饅頭のように誰かが見つけてくれる可能性は低い。
一方で誰かに見つけてもらうことだけに特化して、中身の伴わないカスッカスのプロフィールを並べるのも程度が低い。

 

自己満足の趣味で満足し得なかったら、戦略的に小さなお山の大将を目指してみれば、と今日は思った次第である。
それがどう自分の活動に作用するかといえば、今はまだ考え中ということでお茶を濁しておく。