好きなものと通り過ぎるものについて

 ワンルームの扉を開けると陽が山脈に落ちようとしていた頃で、夕闇の境、仄かに昏い温度に伸ばす腕が止まる。日日に好きな瞬間が二度ある。それがこの陽が沈むときと、再び山から姿をみせるときだった。
 ふと四季がある街に住みながら思うのは、一日でも一年でも一生でも変化が訪れることを期待してしまうことだ。変化を好むことは人間の本能かもしれない。魅力的な女性は表情がころころと移り変わる。季節ごとに服装や髪型を鮮やかに彩り、気づく否気づかないで今日も男女は問答を繰り返す。

 

 変化に敏いことは、"いいやつ"の条件の一つかもしれない。女性の機微に疎く、自身も鉄面皮を崩さない固ゆで卵(hard-boiled)は、現代の括りでは"やなやつ"に属するばかりか、ともするとモテモテになれないかもしれない。
 春は桜見て酒・読書・インターネット。夏は陽を浴び、秋は月見、冬は炬燵に入りて酒・読書・インターネットを愛する我ら一族がおモテになる日は今世紀には訪れないの哉。いやいや、我らは外面の変化には疎いけれど、内面の変化には敏いのよ。諸行無常諸法無我だって諳んじれるんだから。私の機微には人一倍敏感なんです。

 

「こらこら、そうやって内と外、我らと彼ら、味方と敵にわかりやすく二分しないの」心のなかのお母さんが叱る。
「心の安寧を得るためにわかりやすい説明に執着しないって昨日約束したでしょ」危ない危ない……そうだった。
「だいたい朝に代わる瞬間が一番美しいように、敵味方の間に結ばれるものが最も美しいのは自明じゃない」
嗚呼、お母さま、しっかりオチもつけていただいて。それでは、今回の放談はじめます。*1

 

 

 今回のテーマは好きなもの/通り過ぎ行くものについての覚書である。心の掛け軸に「愛せない場合は通り過ぎよ」と掲げる私は、イヤな意味で心がざわつくものを避け続け、片っ端から好きなものを愛してきた。それはそれで機会を逸している自覚はあるので、すでに興味あるものや人から他分野に接続するようにしている。
 好きなら留まり、嫌いなら避け、それ以上に何とも思わずただ通り過ぎ行くだけの表現があった。そうして幾年か過ぎるころ、好きなもの/避けるもの/通り過ぎ行くものの傾向がみえ始めた。その現段階でのお話をしてみたい。

 

  • それ自体が目的じゃない作品は通り過ぎよ。

  相変わらず甲本ヒロトの話をする。ヒロトは「ロックンロールバンドが目指す場所はね、無いんだよ。……そこにずっといるんだよ。そっからどこにも行かないよ。それが東京ドームになろうが教室の隅っこであろうがそんなの関係ないんだ。ロックンロールバンドは最初から組んだ時点でゴールしてんだ。目的達成だよ」って言うんだ。
 俺が好きなのってどこまでもこうなんだ。歌い続けるパンクロッカー、弾き続けるギタリスト。死ぬまで手を止めない芸術家、漫画家、映画監督、作家、研究者、プログラマー。舞台に立ち続けるコント師、漫才師、噺家たち‥

 

 モテたい、カネが欲しい、今より上に行きたい、私を認めて欲しい。そう、表現ってこうした欲望を満たすための手段に過ぎない……なーんて思っている奴の創作になんて俺は絶対感動するもんか。人は他者の欲望に感染するって言ったのはラカンだったか、俺はこの台詞をわりと信用している。金持ちになりたいと思って発信する奴の周りには金持ちになりたい奴が集まるのだ。モテたい奴の周りには、私を認めて欲しい奴の周りには、何者かになりたい奴の周りには、そうした人たちが大挙して押し寄せるのだ。悪いことじゃない。俺は通り過ぎる。

 

 なぜ、マイケル・ジャクソンの『THIS IS IT』に感動したかっていうと、周りのダンサーの感動に感染したからだ。なぜ甲子園に感動するかっていうと、憧れの甲子園でプレイしている球児の感動に感染するからだ。
 俺が好きなのってそうだ。やってる奴がそれ自体に夢中になって好きで感動して出来た創作物。俺のゴールはここだろって。才能とか巧拙はどっちでもいいんだ。なるたけ功名心とかが隠れて混じりっ気のないものがあらまほし。
 感動したいんだよ、結局。他人の作った創作物に俺が求めるのは感動か、笑いか、はたまた絶望かそれくらい。

 

  • 自分の為の感動じゃない作品は通り過ぎよ。

  しかし、だからといって、作り手が観客の感動を意識して操作しようとした瞬間に、「あっ、いや違うんです」と言って僕は逃げ出してしまうのだ。それはもう商品だから。大衆を観客に想定して、「ほら、こういう展開がお望みなんでしょう」と差し出す手に僕は退く。その眼差しに過敏になる。商品は消費され、通り過ぎ行くものだからだ。
 作り手は自分が気持ちよくなるリズムを組み合わせて演奏する。それがすべてで、それが感動でしょう。初めから観客を向いた作品は売れるかもしれないけれど、僕の心はちっとも動かない。作り手の欲望に感染しないから。

 

 だってさ、僕らは作り手の"感動の仕方"に感動するんでしょう。作り手にも原体験があって、その打ちひしがれるような感動に向かって表現する眼差しに僕らは感動するんでしょう。その救いのない自己満足に感染して、次の表現者が生まれるんでしょうよ。PVとか、再生数とか、評価とか、他人の目ばっか気にして最適化された表現に毛ほども魅力を感じない。他人が求める価値を追って「こうすりゃアクセス数が伸びます」「収益が最大化します」と善意でツルハシを差し出す奴の表現が面白かったためしがないじゃんか。手前の興味は数字の上下しかないのかって。

 

 口が悪くなってしまった。とりもなおさず僕は自分にとっての感動を、価値を追い求めている表現者が好きだし、「表現することがゴールなんだ」って言い切って、自分の表現に感動している人が好きだ。
 個人的な好悪の話である。他人の好みまで口を出すつもりは毛頭ない。ましてやこれは表現者に限った話で、付き合う人としての好悪とはまた別の話である。ただ、僕個人の話をさせてもらえれば、たとえ10年、20年かかろうとも自分が感動した情景を自分が感動した手法に乗せて表現すれば、必ずこっちは感動するからさ。

*1:新たに本などを参照せず、思いつきを手癖だけで書く文章を当ブログでは以後、放談と呼びます。何だっていいんですが。