世界の終わりを想像する方がたやすい


面白そうな本を買った。
映画、哲学、政治、経済の用語や文章が縦横無尽に目まぐるしく散りばめられ、
注意深く読まなければ(注意深く読んだとしても)、そこに何が書かれているのかまるで分からない。
しかし、何が書かれているかまるで分からなくとも、そこに含まれるメッセージの熱量を感じ取ったとき、
人は理解しようとして、知性や想像力を最大限に働かせる。
本書刊行後、2017年に自死した著者マーク・フィッシャーの叫びをレポートしたい。

資本主義の終わりより、世界の終わりを想像する方がたやすい——というスラヴォイ・ジジェクの言葉を引用して、
著者は「資本主義以外の存続可能な代替案を想像することすらできない状態」を資本主義リアリズムと呼ぶ。
想像することすらできない、とはどういうことだろう。
かつてマルクス主義思想や運動の批判が、もっぱらマルクス主義の用語を用いて行われたと聞いたことがある。
資本主義批判が、包括的な資本主義の制度を用いてしか成り立たないということだろうか。
ここで槍玉に挙げられるのは、新自由主義者ネオリベ)が金融危機の際、国家制度に頼ったという事例だ。

 

新しいものを無くして文化はどれほど生き残ることができるのか?
若者たちが驚きを生み出せなくなったとき、その先にはいったい何があるのか?
と、映画『トゥモロー・ワールド』からの警鐘を著者は読み解く。
挑戦も変更もされなくなった伝統に価値はない、ただ保存されるだけの文化はもはや文化でも何でもない。
文化は過去と現在と未来との相互作用である。
新しいものは現存のものとの相互関係において自己を定義すると同時に、
現存のものは新しいものに応じて自己を再構成しなければならない。
文脈を剥ぎ取られ、次の現実・文化に作用する若者の驚き混じりの視線なしに文化の持つ価値はない。

資本主義が持つ力は、文脈を破壊する。
あらゆる文化的オブジェクトに貨幣価値を付与できる「等価体系」の作用は、文化をただ消費させる。
あらゆる存在に値段がつけられ、 金銭的に価値があるかどうかで評価され、文化が経済へ溶解してしまう。
敬虔な信仰や騎士の情熱や町民の哀愁が、ただ一つ利己的な観点によってのみ視線に曝される。
ドゥルーズ=ガタリによれば、資本は原始社会や封建社会が「予め悪魔払いしてきた」醜態なのだ。

 

80年代に展開されたポストモダニズムの時代よりも、著者が呼ぶ「資本主義リアリズム」は深刻な状況である。
サッチャーの格言、「この道しかない(there is no alternative)」が資本主義リアリズムのスローガンだ。
資本主義がごく当たり前の事実過ぎるあまり、それ以外の選択肢と相対化できない。
一見メインストリームへの反抗に見える「オルタナティブ文化」などのカウンターカルチャーは、
今やファッションの一部となり、メインストリームに取り込まれ従属している。
カート・コバーンのような文化の担い手の悲痛な叫びこそが、欲望の対象となり、すっかり消費されてしまう。
成功は失敗を意味し、成功はシステムを強化する餌となり、どうしようもない倦怠感を彼らに抱かせる。
リアルの追求——妥協のない、音楽産業の側についたり、様々な層に届くためにメッセージを曲げない態度が、
それさえもが高い市場性を持ち、容易に資本主義のシステムに回収されることになってしまった。

 

映画が持つの役割の一つは、異なる生き方や世界を画面の中に発見し、想像力を働かせることであった。
ピクサーの『ウォーリー(Wall-E)』は、頽廃した人類の姿を描き、それは映画館にいる観客そのものが風刺の
対象になっているのだが、この類のアイロニーは、むしろ資本主義を助長さえしていると著者は述べる。
つまり、アンチ資本主義をこの映画は代弁してくれているので、私たちは安心して消費に励めるというわけだ。
資本主義がいかに苦しみをもたらすかを力説する道徳的な批判は、現在の状況を増長させるだけだ。
ここまでで、資本主義の批判の仕組みがそのまま資本主義のシステムに内包されてしまうという矛盾が、
現代の抵抗が、どれだけ絶望的で無力であるのかが伝わってくる。

 

真の政治的主体性を取り戻すとは、まず欲望のレベルにおいて資本に翻弄されている私たちの姿を認めることだ。
悪や無知を幻影的な「他者」へと振り払うことは、自身の関与に鈍感になるという悪手である。
心に留めておくのは、資本主義が非人称的な構造であり、かつ私たちの協力なしには成立し得ないことである。
資本は飢えたゾンビを生み出す装置であるが、それを死んだ労働に変えていく肉体は私たちのものなのだ。
しかし、それは個人の心構えによって変わることなのだろうか。

今日のイギリスの(日本の)学生は政治に無関心だという印象がある。
過酷な状況を前にして、運命を諦めてしまっているかのように思われる。
この状態は無関心や冷笑主義というよりもむしろ、「再帰的無能感」の問題であると著者は主張する。
彼らは快楽を求める以外何もできない(快楽主義=ヘドニズム)というのが特徴だ。
「何かが不足している」という感覚はあるが、それを快楽享受という形でしか捉えることができない。
規律制度の対象者であるという役割と、サービスの消費者であるという地位との間で板挟みにあっている。


学生に数行足らずの文章を読むように指示したとしよう。教員がもっとも耳にする苦情は「つまらない」である。
彼らを「つまらない」と思わせるのは、接続過剰のせいで集中できない——チャット、Youtubeスマホゲーム、
SNS、簡易食からなる即時満足的な果てしない刺激を中断させられるという不快に耐えられないからだ。
絶え間のない娯楽に接続され続けることは結果として、落ち着きのない、集中も専念もない状態をもたらす。
サイバースペースの資本は、彼らユーザーに常習性をつけることを目指す。
ニューロマンサー』のように、娯楽世界から離脱したとき、虫酸の走るような麻薬常習者の気分を味わうのだ。

 

スターリニズムから引き継がれたような、市場型スターリニズムという事態も起きている。
労働者のパフォーマンスを査定しようとする欲求によって、役所的な形式主義の膨張に巻き込まれているようだ。
そこでは労働者のパフォーマンスが直接評価されるのではなく、その成果の表象が比較の対象になる。
仕事の実際の達成よりも、むしろそれらしき表象を生み出すことに労力が費やされるのだ。
成果を測る手段である到達目標は、それが設定されるとすぐさま自己目的化してしまう。
教育現場では、具体的な学力(点数)が到達目標になると、試験に合格させることが教育の目的になるだろう。
つまり幅広い知識よりも、視野の狭い「演習問題」が学ぶべき対象となるわけだ。
医療現場では、少数の深刻な手術よりも、評価の対象になりやすい簡単な手術の成功率を求めるようになった。
株式会社が評価される仕組みは、「実際に何をしているか」よりも、
その企業が(将来)いかなる実績を示すかに対するイメージに寄るところが大きい。
つまり資本主義では、多くの仕事が広報・ブランディング・イメージ作りに費やされて行く。

 

この問題に対して、ジジェク大文字の他者(l'Autre)」というラカンが提出した概念を用いて言及している。
が、この概念がちょっとよく分からない。
大文字の他者とは、あらゆる社会的分野が前提とする集団的なフィクション、または象徴的な構造のことだ」
と説明されるが、この私たちが参照する仮想的人物をどう理解すればいいのか。
ここでは実体のない三人称(具体的な顔の見えない彼ら)、神なき時代の神、程度に理解しておきたい。
大文字の他者の特徴は、全知ではないということだ。むしろあまり知らない——と思われている。
例えば、政治的・社会構造の腐敗にいつまでも気づかないのは誰だろう。
欠点を知りすぎる国民ではないし、それを時間をかけて施行する役人でも官僚でもない。
これが仮想的な三人称、役人と国民のどこか間にいる大文字の他者である。

役人は国民を無知だと思い込み、国民は役人を無知だと思い込む。
この両者の食い違いこそが、「通常」の社会的現実を機能させている。
そして「大文字の他者はそれを知らない」と信じることがもはや不可能になったとき、支える制度は崩壊する。
過去には「大きな物語」が信じられなくなったとき、一つの時代が終わった。
現代でも同様に、「大文字の他者」を信じられなくなったときが制度の終わりである。
だからこそ企業はイメージ作りに腐心するのだ。
「ありのまま」を話そうとしたチェーンの宝石店経営者ジェラルド・ラトナーは、
自身が販売する格安宝石を「ゴミ同然」だと公言した。
この失言が企業価値を5億ポンド下げ、180店舗が閉鎖し、550人の従業員が解雇される事態にまで及んだ。
その宝石の個別の利用者は質が低いことを見抜いていたかもしれない。
しかし、そのことを皆(大文字の他者)が知ってしまった途端、虚構は一気に崩れ去ったのだ。

 

このメタフィクション的な不安を、おとなしい批判という形でテレビ番組は取り扱ってきた。
隠しカメラを用いたドキュメンタリー番組や、街頭インタビュー、政治的な世論調査は、
カメラ(その背後の視聴者)の存在が出演者に影響を与えているかもしれない、という不安を拭えない。
出演者は視聴者に媚びるために演技しているのではないか。何かしらの演出がされているのではないか。
その場合、それをありのままの「現実」と呼ぶことは難しいのではないだろうか。

役人が責任回避を免れる立場から享受する悦びを私たちは知っている。(規則ですから、私の責任ではありません)
役人とのやりとりに不満が生じるのは、彼らが自分自身で何も決断できないからだ。
すでに下されている決断を参照することしかできない彼らに、怒りの矛先を向けることはできない。
この官僚主義の関与否定の構造を見抜いたからこそ、カフカは重要な作家なのだ(『城』)。

 

この、顔の見えない大文字の他者によって評価され、彼らの意向を気にしなければいけないところに、
一つ現代の労働の虚しさがあるのかもしれない。
データ主義と監査文化の蔓延では、例えば講師たちは、自分の仕事がデータを照合し消費する大文字の他者
好印象を与えるために行われているという様子に不満を抱いている。
このデータは重要なものであるにもかかわらず、個別の詳細を欠き、監査の範囲外では意味を持たないからである。
彼らはいつでも監視されうることを念頭に行動するようになる。
しかし、評価基準になるのは概ね講師としての実力よりも、むしろ役人としての丹念さである。
管理職は「この道しかない」と主張し、「闇組にではなく、賢く働け」と勧める。
講師たちはこれらがもたらす研究上・教育上の意味の無さに対して抵抗している。
「監査レジームに終止符を打つことは、かつて奴隷制を廃止したことよりも不可能に思える」と、講師は皮肉った。

 

この時代、快活さや健康を保ち続ける唯一の方法は、批判的な反省性をほぼ完全に欠き、
官僚主義権力から受けた指令に冷笑的(シニカル)に従う能力を身につけている者に限る。
まじめに実行している監査手続きを、「本当は信じない」ことによって自己像に傷を負わずにいられるのだ。
意味のないことを疑いなく受け入れるというこの戦略はつねに、正気を保つための技術であった。
このような存在論的不安においては、忘却が適応戦略となる。
何か強い信念を抱き、葛藤しながら決断する者よりも、コロコロと適応する者の方が生きやすいのかもしれない。
このソフトウェアを更新するかのようなこの葛藤の無さは、ある種記憶の欠如である。
『ボーン』シリーズにおいて、アイデンティティーと記憶を巡る旅は、安定した自己意識からの逃亡と連動する。
マスメディアの話題は一週間ほどで忘れられて行くが、いちいちしがみついていたら変化に適応できないのだ。
一方で『メメント』のように、新たな記憶は敵、儚さ、舵取りできないものとして現れ、
患者は古いものの安全地帯を愛する特徴を持つ。新たな記憶をつくることができない、
これこそがポストモダンの膠着状態を一言で要約できる表現ではないか、と著者は時代の病理を読解する。

 

現代、大きな政府という亡霊は資本主義リアリズムにおいて必須のリビドー的機能を果たす。
それは、権力として作動することの失敗について責め立てられるためだけに存在する。
例えば英国の大洪水の被害の責任は、家を建てた建設会社や土地を選んだ市民より、
それら建設会社を止めなかった政府、地方自治体、環境庁への反感が強かった。
あるいは洪水対策への支出が不十分であったと批判が向けられている。
08年の金融危機の際、体系的な原因への注目よりも銀行家や政府への危機対応に関心が寄せられた。
政府、または不道徳な個人に焦点を当てることは、問題から目をそらす行為なのだと理解しなければならない。
執拗に政府を責め立てるのは自己欺瞞であり、それは今日全体的な統治者などは存在しないということ、
それに最も近いものは企業の無責任を引き起こす漠然とした利害関係だということを受けれ入れられない証だ。


このグローバル資本主義における中心の不在は、例えばコールセンターにしわ寄せが来る。
電話をかけてみればすぐ気づくように、答えを知っている者は誰もいないし、何かしてくれるわけでもない。
怒りは、はけ口を探すことしかできず、その攻撃は影響力を持つことはないだろう。
原因があるとしたら、個々人の悪者がいるのではなく、それを支える構造なのだ。
例えば企業や銀行のマネージャー層をすべて入れ替えたら、事態は好転すると考える人はいるだろうか。
そう思うのは、志を高くして管理職に就く彼・彼女らたちだけかもしれない。
しかし、彼らが権力のどんよりとした硬直化に飲み込まれるまではたいてい長くはかからない。
したがって、個々人に責任を押し付けるのは誤りだ。彼らはシステムに則っているだけなのだから。
行動の責任を問われるのは個人であるにもかかわらず、それらの不正・過ちの原因は組織であるという手詰まりは、
それがまさに資本主義の欠点を指し示すものなのだ。

 

中央政権を中身の欠いた亡霊とみなし、構造的原因とされる企業では多くの時間がイメージ作りに費やされる。
大文字の他者という実在しない誰か向けて取り繕われる仕事は空を切り、
愉快に生き抜くには外面的服従と反省性を欠いた忘却が必要である。
学生は即時快楽の世界に常時アクセスし、しつけをする父親は役目を果たせず、
それに代わる教師も市場的評価と役所仕事とに板挟みになり、その役目を負うことはできない。
市民の不満はまず政府へ、次にコールセンターへとつながるも、それで何か解決することはない。
私たちは、これら問題が孤立した偶発的なものではなく、単一的な原因による作用だと示さなければならない。
それを個人の問題として責任をなすりつける限り、そのリアリティはいつまでも明かされないだろう。
その原因とは——資本である、と著者は言う。資本に対して戦略を立てる必要があるのだ。

実在するのは一人一人の身体のみである——身体性を取り戻さなければならない、と本書を振り返って思う。
本書の主張は、「この道しかない(There is no alternative)」に
→「この道しかないのか(Is there no alternative?)」と疑問符をつけることだった。
精神分析の用語や、後期資本主義に対する知識を欠いているので、どこまで彼の議論についていけたか、
どこまで資本主義を問題の原因として捉えていいのか今の私には判別がつかない。
しかし、この資本主義の中でいかに立ち振る舞うかということだけを考えている限り、
それはある種の思考停止であり、諸問題から目を背け続ける行為であることは理解できた。
知識不足を補って、彼の絶筆に今一度耳を傾けたい。

  

資本主義リアリズム

資本主義リアリズム

  • 作者: マークフィッシャー,セバスチャンブロイ,河南瑠莉
  • 出版社/メーカー: 堀之内出版
  • 発売日: 2018/02/20
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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