『世界文学を読みほどく』ツリーから羅列へ

本を読み、文字を重ねる。そのとき、何を目指して打鍵するのか。あるいは誰を。
人に本を勧める文章は、それを購入させる動線を担うのか、感動を分かち合う相手が欲しいのか、
その紹介を通じて個人でも社会でも世界でも何かが変わればいいと思っているのか。

 

その意識はそのまま相手に伝わる。熱量、その目的の浅薄さに辟易とする。

 

自分に向かって書いている。過去の、現在の、未来の私に向けて書く文章は、ある程度の独りよがりと、
それと同じくらい開放性を持たなければならない。そうしなければ何も繋がらない。
何も繋がない文章に、いったいどれほどの価値があるだろう?

 

 

講義が始まった。
「小説」という形式が、19世紀に西欧である意味では完成し、「小説の幸福期」という時代あった。
はたして小説はいま幸福なのか、あるいは19世紀に出来た形がどう変わってきたか、これからどうなるのか、
この変遷をスタンダールからピンチョンまで通して眺めようというのが当講義の目指すところである。
小説というのは、この世界を表現する道具の一つであり、世界が変われば小説もどんどん変わっていく。
だから登場人物とストーリが「どういう世界」で事が進むか、それをまず掴むことが読解の初歩だ、と言う。

 

2世紀頃のギリシャ文学『ダフニスとクローエ』は最初期の恋愛小説だが、
このときすでに「恋をしている男女が障害を乗り越えて結ばれる」という基本形が成立している。
この障害というのが世界の様相を映し出す。この時代の障害を物語という形で描き出すのが作家の役割である。
二人を阻む身分の差、貧富の差、戦争、病気で逢えない。女性が攫われてしまう。男性が誘惑されてしまう。
こうした基本形は古くから存在し、古代ローマ、平安の日本、清朝中国など暇を持て余す場所に文学は生まれた。
文学が本当に隆盛したのは、グーテンベルク活版印刷が普及してからここ300年ほどのことだ。
西洋における市民社会の成立と識字率の向上、暇のある読者の誕生、本を売買する商いがはじまる。
次第に専業作家が生まれ、それだけで作家が暮らせる時代になった。そうした時代があった。
しかし、これは過去300年の特異な出来事だったかもしれない。小説を買う人口は減少の一途をたどっている。

 

カート・ヴォネガットが書いた『スローターハウス5』の作中に、こんな一節がある。
「人生について知るべきことは、すべてフョードル・ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の中にある、
と彼はいうのだった。そしてこう付け加えた、『だけどもう、それだけじゃ足りないんだ』」。
カラマーゾフの兄弟』は人の情熱について、理性について、信仰について——これらの事柄を三兄弟が体現し、
およそ人間の本質というものの希望と絶望とが物語を通じて考察されている。それが19世紀末に書かれた。
そんな小説に対する「だけどもう、それだけじゃ足りないんだ」というヴォネガットの台詞は、
いくら最高の小説が過去に書かれようとも、私たちを取り巻く世界は刻々と変化しているわけで、
その変化に対してその時代の作家が格闘する。いま私たちはどういう「場」に生きているのか苦心して表現する。
だから小説というのはいつの時代も書き続けられるのだ、という宣言なのだ。

 

小説を遥か昔まで遡ると、一つ「神話」という起源にたどり着く。
池澤は「ゴシップ(噂)」というのも小説の起源に深く関わっているのではないかと述べる。
人は他人の身の上について非常に強い関心を持っている——これは人類に共通する性質だ。
「神話」は「神様に関するゴシップ」と考えることもできよう。
古事記』はヤマトタケルに関する噂。『ギリシャ神話』は神々に関する噂。
小説というのは他人の噂話だ、とだって言える。その話を聞く人とはまったく関係のないことだ。
しかし、その関係のない話に私たちは強く惹きつけられる。この「他者への関心」が小説を駆動させる力だ。
(そうだとするならば、自分のことでいっぱいなときほど小説への関心が薄れることになりますね。)

 

 物語。「物」を「語る」。「物」はやや物質的で、「事」はやや現象的だ。
「語る」とは、単に話すこととは違う手触りがある。そこには始まりがあって事件が起こり終わりを迎える。
言い換えれば、時間経過に伴う主体の変化がある。おそらくこれが物語であろう。
今ではない、過去か未来か、それも他者の時間を外挿(extrapolate)する、外へと延ばして行く。
時間感覚の移動、これが物語という形式に必須な想像力のことではないか、と。 

 

 

二限目が始まる。
事件の前後によって人が変化する。小説というのは、この人間の動きに目を奪われがちだが、
それと同じぐらい、いやそれ以上に「場」「舞台」というものの重要性を池澤は訴える。
演劇と同じである。芝居が始まると、人は演者に惹きつけられるが、実は舞台がなければ何も始まらない。
つまり場=舞台=空間=世界があって、それと人との相互関係によって物語は進展して行くわけだ。

 

この「場」というものの説明は、小説における客観性を担保する。
人が一人考え、行動する。ここに現れるのは行動する主体の主観のみである。
そこに客観性を持つ「場」が与えられる。おそらく順序は逆だろう。舞台があって、人物がいて、行動がある。
それは生きることの基本である。生まれたときすでに世界があって、自分がいて、その影響下で行動する。
私たちは次第にこの世界の説明を要求する。因果関係、世界がこうであるから私は今こうしている、と。
この世界と私たちのあいだを繋ぐのが想像力であり、物語である。繋ぐから、双方に意味が生じるのだ。
(想像力=繋ぐ力。世界と私たちを結びつける力、過去と未来を結びつける力のことだと理解します。)
だから物語というのは、まず「場」がある。ここに人物が登場して、移動して、出会いがあって、結末がある。
と、いうことで次はいよいよスタンダールの作品から。

 

 

 

 

三限目、スタンダールパルムの僧院
スタンダール(1783-1842)は19世紀前半のフランス作家。代表作は『赤と黒』(1830)。
パルムの僧院』(1838) は、イタリアのパルム公国を舞台とした、魅力的な男の生涯の物語である。
その彼の運命に、これまた魅力的な叔母が絡んでくる。一言で言ってしまえばそういう物語だ。
テーマとして「幸福」の概念が中心にある。彼らは不幸に見舞われるが、それも含めて幸福という印象を受ける。
通常、小説にはなんらかの現実批判が含まれるが、この作品の場合ほとんど前面化してこない。
主人公たちの生き方が、作者によって強く肯定されている。こういう生き方もありうるのだと、褒め称えている。
では、なぜこの作品から幸福感、祝福のイメージを受けるのか。その解読をするのが今回の講義である。

 

この話を動かすのは二つの力だ。 一つ目は王宮の「政治」。二つ目は人物の「魅力」。
パルムの僧院』は、パルム公国という狭い世界で、しかも政治と魅力という限られた力で物語を動かしている。
それでも活き活きとする理由は、スタンダールがこの物語を全面的に信頼しているところにある、と池澤は読む。
通常、小説家の内面には必ず一人の批評家がいて、自分が書いたものをリアルタイムで批評している。
小説家と批評家との内なる葛藤、論争、殴り合いの結果、作品が生まれてくる。
だから実は小説を書きたいけど書けないという人の内面は、批評家の発言力の方が強い状態なのだ。
これを一つは技術力によって、説得力によって、あるいは腕力によってねじ伏せる。
小説家の発言力が批評家を上回ったとき作品は世に出て行く。

 

スタンダールはこの作品を口述筆記で書き上げた。それも二ヶ月も経たない期間で。
頭の中に物語が出来上がっていて、途中でためらいがない。そのドライブ感が作品を通して伝わってくる。
彼はフランス生まれの作家だが、生涯イタリアという国に魅了され続けた人間でもある。
イタリア人の生き方や考え方を理想に置き、イタリアの女性を愛し続けた。
彼らが持つものは情熱、パッション、つまり自分の心に正直に思いのまま生きるという態度だ。
パルムの僧院』は、そうしたイタリア的な物の考え方をフランス人に教えようとした小説だったのではないか。
スタンダールは非常に惚れっぽい性格で、自分が好きなタイプの人たちについて書きたいという欲求があった。
作者が登場人物たちを愛し、なぜ好きなのかと彼らの魅力を語るから、この物語は幸福感に溢れているのだ。

 

一方、ウィリアム・ゴールディング『蠅の王』のように作者が登場人物を愛していないだろうという作品がある。
読者に疑問を突きつけて、現実のことについて「ちょっと待てよ」と立ち止まらせることを目的としている。
スタンダールはそうではない。政治的駆け引きと、恋の駆け引きによって物語を駆動させ、
読者を最後まで立ち止まらせることなく滑らかに連れて行く。登場人物の行動倫理に何の疑問も抱いていない。
自信を持って書いている。非常に幸福な、作者と登場人物と読者の関係がありうるのだと、彼から学びたい。

 

 

四限目、トルストイアンナ・カレーニナ
レフ・トルストイ(1828-1910)は19世紀ロシア文学の巨匠。他に『戦争と平和』(1869)。
アンナ・カレーニナ』 (1877)は、高官の人妻であるアンナが若い将校と恋仲になり、一緒に暮らし始めるが、
やがてすべてがうまく行かなくなり、絶望したアンナが悲劇の結末を迎えるという話だ。
有名な書き出しは「幸福な家庭はすべて互いに似かよったものであり、不幸な家庭はどこもその不幸のおもむきが
異なっているものである」。つまり幸福な家庭は円満で、不幸な家庭はそれぞれに欠けた部分がある。
それに続くのは「オブロンスキー家ではなにもかも混乱してしまっていた」。ここから不幸な家庭が描かれる。

 

この家庭に訪れる不幸は、不倫による夫婦のすれ違い——夫が家庭教師としてしまった不倫に対し、
妻の方は酷い悲劇だと思っている。しかし当の夫は「妻にバレちゃった」程度の軽い認識でしかない。
この不倫を仲裁するために登場したのが、夫の妹アンナ・カレーニナである。
アンナは兄に会うために汽車に乗り、モスクワ駅で将校ヴロンスキーと出会う。
彼は(この辺ちょっとややこしいけれど)さっきの浮気された妻の方の妹キチイに求婚しようとしていたが、
駅で見かけたアンナに一目惚れしていて、同じくアンナも人妻の身でありながら彼が気になってしまっていた。
一方キチイにはもう一人求婚者がいて、農場主のリョーヴィン。この辺りの恋愛模様が複雑に絡み合っていく。

 

不倫を仲裁しつつも、結局自分も不倫をすることになってしまったアンナの人生は徐々に崩れ始め、
リョーヴィンとキチイの純愛夫婦は幸福な家庭を築く。パートナーを信じられない家庭は不幸を招く。
こうしためくるめく物語(池澤に言わせればメロドラマ)が、トルストイの筆致によって描かれていく。
池澤の目には、この物語の作られた感、支配された感がどうも気になるらしい。
たとえば物語前半に凄惨な轢死体を見せ、それと同じ運命を不貞なヒロインが辿るという悲劇。
作者の言いたいこと——「誠実に、純潔に」というメッセージのために配置されたような登場人物たち。
彼らが勝手に動き出すというよりは、全能の作者によって動かされたような物語が、どうも好きになれないようだ。

 

 

五限目、ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟
フョードル・ドストエフスキー(1821-81)は同じく19世紀ロシアの文豪。他に『罪と罰』(1866)。
カラマーゾフの兄弟』(1880)は、彼の死ぬ間際に描かれた最後の長編小説である。
軸をなす物語は殺人事件の解析だ。人物の混み合った関係性があり、その構造の上に作者の思想が乗っている。
カラマーゾフ家には父と三兄弟と使用人が住んでいた。三兄弟にはそれぞれ異なる性格が割り振られ、
長男ドミートリイ(愛称ミーチャ)は「情欲」、衝動的、快楽への意思、しかし野生的な魅力がある。
次男イワン(愛称ワーニャ)は「理性」、合理的、無神論で「神がいなければ、すべては許される」と言う。
三男アレクセイ(愛称アリョーシャ)は「信仰」、ロシア正教会のクリスチャン修道院に出入りしている。
それから使用人スメルジャコフがいて、強欲な父フョードルが一家の主人である。

 

このカラマーゾフ家の血筋には、どうやら好色の気があって、放蕩の気があって、欲望に突き動かされている。
それを次男は理性で、三男は信仰によって押さえつけているに過ぎず、全員がその性格を持っていた。
この溢れ余る生命力をどう手懐けるか、抑えない方がいいのか。それから幸福のために神を信じるべきか否か。
こういった議論が物語の中心に渦巻いていて、それを周囲がぐるりと囲んでいるようにみえる。
だから生きるということをどれだけ味わい尽くすか、どれだけ抑えるべきか、それを考える教科書にもなる。

 

「欲望と制御」「信仰」という二大テーマの他に、もう一つ「ロシア」というキーワードが横たわっている。
当時のロシア——1861年農奴制が解放されたばかりのロシアでは、ヨーロッパの後進国だという自意識があった。
この国をどう築いていけばいいか、インテリたちは散々議論するが、何も進展しない無力感が漂っていた。
しかし、民衆はロシア正教会を信じて結束する強さを持っていた。ドストエフスキーは彼ら民衆を信じた。
最終的にロシアを前進させるのはフランスのような武による革命ではなく、民衆への信頼だという未来像があった。
彼はその思想を書にしたため、次の世代に託す。その証拠に物語には子供たちが何人も出てきている。
非常に多くのテーマが含まれている。父親と長男が一人の女を巡って争い合う恋愛話とも要約できるし、
父親殺しの犯人を見つけるミステリとも要約できる。裁判小説に変化をみせ、思想的、宗教的な要素は強く、
家族話としての側面もあり、少年たちも活躍する。なるほど19世紀文学の大傑作たる所以がこの総合小説なのだ。

 

カラマーゾフの兄弟』を語る上で、どうしても外せない大事なシーンがある。
これが一般に「大審問官の問題」と呼ばれるものだ。
次男イワンは、なかなか会えないにしても三男アリョーシャに充分深い愛情を持っていた。
無神論者のイワンとしては、アリョーシャの敬虔な態度をやめて欲しいと思っていて、こんな問いかけをする。
キリスト教にどれほどの力があるか」。彼が例にあげるのは子供たちの受難、児童虐待のスクラップ記事だ。
農奴の子供が猟犬に怪我をさせたのを領主が怒り、その子供を裸にして猟犬に追わせ、殺させた事件があった。
イワンは、この領主は銃殺されてもいいと思わないかと尋ねる。「銃殺です!」アリョーシャが咄嗟に答える。
彼はハッとなる。「ばかなことを言ってしまいましたけど、でも……」「そのでもってのが問題なんだよ……」
「この世の中をよくするために、そういう子供たちの受難が必要なんだとしたら、自分はそんなものはいらない」
イワンは言う。殺された子の親と加害者が互いに抱擁しあって、「主よ、あなたは正しい」と讃える日が来ても、
俺はそんな最高の調和なんぞ全面的に拒否するんだ。そんな調和なんて、あの子供一人の涙にさえ値しない、と。

 

つまりイワンは、目の前の子供を救えないキリスト教に価値はない、とアリョーシャに言うのだ。
それでも「キリストはすべての不幸を相殺する」と動揺しながらも譲らない三男に、イワンは叙事詩を聞かせる。
これはイワンが創作した叙事詩で、異端審問が喧しい中世のスペインにキリストが復活したという話だ。
町を歩くキリストは人々を次々と救ってみせる。その様子を見た大審問官が「何しに来たんだ」と問い詰める。
お前がしていることは、人々を幸せにすることなのか。私たちはお前なしでやってきた。制度を維持してきた。
お前は神を信じることは自由意思であることを期待するが、普通の人間には自由意思なんて耐えられない。
だから教会が代わりに権力を以って、自由を束縛し、服従を誓うことで魂を救済するシステムを組み上げたのだ。
今さらやってきて自由を与えられてたまるか。それで人間が幸せになると思うか、と大審問官は問う。

 

大審問官の問いは非常にラディカルで、また現実的な話をしている。これが多くの読者にショックを与えた。
普通の人々は、奇跡に、パンに、慣習に、恐怖によって縛られなければ一歩も歩くことはできない。
自由意思なんてものは人間の手に負えない。人は自由意思による魂の救済より、奴隷になれるものを欲する、と。
現代でも人はパンと見世物に終始する。ドフトエフスキーの時代にはなかった、大衆操作の技術が発展し、
パンを右から左に流すだけの扇動的な仕事が横行している。すぐに快楽が与えられる見世物に人々が集まる。
長く生きらえたい無能政治家は、自分の理念より先に(しばしば国外の)敵に注目を集め団結させようとする。
そうした理想なき世界で、パンと見世物に釣られるだけの即物的な大衆に、池澤の溜め息が漏れるのだ。
(ともあれ、もう少しよく考えたい話題なので、次一年間かけてドストエフスキーに挑戦しようと思います。)

 

 

六限目、メルヴィル『白鯨』 

ハーマン・メルヴィル(1819-91)は19世紀のアメリカを代表する作家だ。
『白鯨』(1851)、原題は "Moby-Dick" 巨大鯨の名前である。
時代的には『アンナ・カレーニナ』や『カラマーゾフの兄弟』よりも前に書かれたが、二作品より現代的だ、と
池澤は言う。その証拠に19世紀には評価されず、20世紀に入ってようやく評価され始めた。
物語はイシュメールという男が、休暇がてら(金がないから仕方なく)乗り込んだ捕鯨船ピークオッド号から、
命からがら生き延びた、その回想の記録という形で始まる。この話でイシュメールは語り部としての役割を持つ。
実際に鯨と戦うのはピークオッドの船長エイハブだ。彼はかつて巨大鯨と格闘して片足を千切られた経験がある。
彼は巨大鯨モービ・ディックにもう一度出会い、雪辱を果たしたい。
よって、この物語はエイハブが港を離れ、宿敵モービ・ディックと戦うまでを描いた単純なストーリーなのだ。

 

では、中盤には何が書かれてあるのか。ずっと鯨の話である。鯨の種類、語源、生態、解剖、ありとあらゆる鯨学。
捕鯨船に乗る船員紹介、いかにして鯨を見つけ、どう動いて、追いかけ捕まえるか。人類にとって鯨とは何か。
ひたすら鯨に関する知識が小説という容器に詰め込まれている。ここに池澤は現在との接点を見出す。
一つはグローバル的な小説ということだ。上記三作品はドメステックな物語だった。
鯨は全世界に散っていて、この時代は鯨油を目指して捕りに行く。鯨肉は捨てていた。
たとえば黒船来航は1853年(黒船来航、人は混み)のことで、捕鯨船の燃料基地確保の目的もあった。
また水夫は世界中の港から集まっている。インディアン、アフリカ、太平洋の島、インド、ヨーロッパ、南米‥。
しかし船を操縦するのは白人で、白鯨に銛を打つのが非白人というのはメタファーである、というのが読みだ。

 

それから池澤が注目する現代的ポイントは、項目の羅列性である。これが19世紀には新しすぎたと指摘する。
真ん中にドン、とあるのは鯨の百科事典。鯨をキーワードとした森羅万象に関する知識の詰め合わせである。
あいだ18章のチャプターのどこをどう入れ替えても構わない。すべて結末に向かって流れているわけではない。
メルヴィルが示したかったのは、世界の構造はそもそも羅列的である、ということだ。
世界は一体の神から派生したツリー型の構造をしていない。全体を統一するものはない。
世界は個々の項目の羅列によって成り立っていて、その間には関係の強いものと弱いものがあるだけである。
これをキーワードでまとめると、「データベース」ということになる。(ポストモダンっぽい!)
メルヴィルは「データベース」という言葉が登場するまで長い時間待たなければならなかったのだ。
このデータベース的小説の一つ一つの項目に言及するのはナンセンスなので、この時限はこの辺で。

 

 

七限目、ジョイスユリシーズ 

ジェイムズ・ジョイス(1882-1941)は20世紀前半のアイルランド作家。
ユリシーズ』(1922)の特徴はその密度と長さ。普通の読者を無視した、非常に読みにくい小説である。
しかし研究、謎解きの対象としては止められないくらい面白い。『源氏物語』や『紅楼夢』のように夢中になる。
20世紀に入ってから最も解析的に読まれたのが、この『ユリシーズ』と『失われた時を求めて』(1913)だった。
なぜかといえば、一限目に述べた「神話」と「ゴシップ」という概念をそれぞれ極めた小説だからだ。
小説というのはここまで出来るという、力の限りを尽くした小説がこの二作なのだ。

 

では、どういう工夫が施されたか。中心人物は三人。文学を志すスティーヴン、新聞社の広告営業レオポルド、
その妻でセミプロ歌手のモリー。この三人が『オデュッセイア』の主要人物と重ねられるのが基本アイディアだ。
オデュッセイア』になぞられるような大筋のストーリの中に、しかも1904年6月16日という限定された一日に、
神話的な人の動き、ヨーロッパ思想の潮流、それからアイルランドという国の問題点が全部詰め込まれている。
それから文体的なアイディアがある。全18章からなる小説だが、すべての章で文体が異なるのだ。
13章はハーレクイン・ロマンス的文体、17章はカトリックの教義問答的な口頭試問が繰り広げられ、
18章にはカンマもピリオドもないモリーの独白など、ありとあらゆる文学的技巧が各章に織り込まれている。

 

ジョイスが試みたことは何か。一つ言えるのは、たった一日のことを数千ページにわたって書き尽くしても、
その一日のことすら全部を記述することは到底できない、ということである。世界全部は見て取れない。
たった一つの都市、たった三人の中心人物、たった一日でも書くことは山ほどあり、その極限を目指している。
三人の周り百人以上の人物が登場し、彼らとの会話をきっかけにヨーロッパ精神史の、人類史全体の記憶まで遡る。
もちろんストーリーは存在し、時系列に沿って物語は進んで行く。しかし、すべてが結末に結びつくわけではない。
細部が増殖し、様々な記憶を繋ぐ糸として三人がいる。やはり羅列的であり、データベース的な意味を持つのだ。

 

 

八限目、マン『魔の山 

トーマス・マン(1875-1955)は20世紀ドイツの作家。他に『トーニオ・クレーガー』『ヴェニスに死す』。
魔の山』(1924)が書かれたのは、第一次世界大戦(1914-1918)後のワイマール共和制時代である。
ドイツという国はコンプレックスがあった。小国が乱立していて、統一されてまとまるのが遅かった国であり、
パリやロンドンのように中心となる集権都市がない。つまり地方に人や産業が分散して分権的であるということだ。
第一次世界大戦は一世代の若者をまるまる亡くし(参照:デュ・ガール『チボー家の人々』)、
ましてや敗戦国のドイツでは立ち直れない雰囲気が漂っていた。ナチス台頭前のことである。
トーマス・マンは、ある時期まではドイツ愛国主義者で、ドイツを内側からなんとかしようという思いが強かった。
だがナチスの台頭に連れ国際主義になっていく。やがてアメリカに亡命しナチスに抗する形で活動した作家である。

 

魔の山』はBildungsroman(教養/自己形成小説)の一つで、若者が一人前になるその成長過程を描く物語だ。
社会と人の幸福感には矛盾があり、たとえ社会が平和でも人は必ず幸せになれるわけではない。
一人の若者が育っていく過程でその矛盾と衝突しなければならない。それを乗り越えて人格は形成されるのだ。
物語の主人公はハンス・カストルプ。大学を卒業し、ハンブルグで造船技師を志す24歳である。
彼がスイスにあるサナトリウムで療養する従兄弟のヨーアヒム・ツィームセンを訪ねるところから話は始まる。
カストルプは見舞いのための短い滞在だったのだが、ある日結核に感染し、それから七年間居着くことになった。

 

山の上の隔離されたサナトリウムで、彼を成熟へと導くのは周囲の患者たちだ。
啓蒙的で人文主義者のセテムブリーニと、神秘主義的なユダヤ思想のナフタ。この二人が激しく言い争う。
開かれた思想の前者と、閉じた思想の後者。またペーペルコルンという男が議論を超え、生そのものを肯定する。
人は立場が違ういくつもの意見に引き裂かれたとき成熟するのだと、中立国スイスで行われた議論が体現するのだ。
池澤は、議論を一つの思考実験だったと読む。一人の青年の人格形成を通して、ヨーロッパの人格形成に喩えたと。
欧州経済共同体(EEC)発足は1957年のことであるが、バラバラだった欧州諸国がなぜ繋がろうとしたかといえば、
トップをひた走るアメリカの存在が大きい。サイズは一国では敵わない。だからまずは経済で協力しようとした。
マンは戦後にあって、ドイツだけで考えていてはダメだ、ヨーロッパ規模で考えなくてはいけないと危惧した。
その思想がこの小説で先取りされている。彼はヨーロッパ思想のそれぞれの立場を総ざらいしようとしたのだ。

 

 

九限目、フォークナー『アブロサム、サブロサム!』

ウィリアム・フォークナー(1897-1962)は、20世紀を代表するアメリカの作家である。
彼はほとんどの小説をヨクナパトーファ群ジェファソンという架空の街を舞台に創作活動を行った。
モデルは彼の故郷ミシシッピ州ラファイエット群であり、一連の作品は「ヨクナパトーファ・サーガ」と呼ばれる。
100年前のオノレ・ド・バルザック(1799-1850)も同様のことをしていて、パリを舞台に一連の小説を書いた。
両者に共通するのは、同じ人物や場所があちこちの小説に書かれ、それらを繋げると濃い地域性が出ることだ。
特にフォークナーは架空の街であるから綿密に地図を作り、建物や川や付随するエピソードも書き込んでいた。

 

そんな限定された強い地域性を持つ彼の作品は、一家没落の話が多く、これが非常に面白い。
『アブロサム、アブロサム!』(1936)はトマス・サトペンという主人公が成り上り、没落する話である。
その彼の(あるいは一族の)歴史が二つの側面から語られる。決して客観的な筋の通ったものではない。
歴史をまとめられる人はいない。他者の主観によってしか語ることができない。それがフォークナーの主張である。
クエンティンという学生が、彼のルームメイトにサトペン一族のことを話すというスタイルで話は進められる。
彼の祖父はサトペンのほぼ唯一の友人で、その祖父からサトペンの話を聞いていたというのが一面。
また、サトペンの妻の(うちの一人の)妹ローザが晩年になってからクエンティンに語ったというもう一面がある。
そしてこの両者から見たサトペン像は溶け合わない。それでもなんとか友達に伝えるときに綜合して語られる。

 

どうしてこのような複雑な作りになっているかというと、そうしなければ南部のことが伝えられないからだ。
アメリカ南部のコンプレックス。奴隷制によって栄え、その倫理観を突かれて崩れていった地域。
南北戦争(1861-1865)によって敗れ、それから気力がなくなっていき、ただ栄光を偲ぶだけの時代。
トマス・サトペンが黒人奴隷を多数引き連れてジェファソンにやってきたのは1833年のことだった。
彼は土地100平方マイル(約260k㎡)を購入し、プラテーションをこの地で展開しようとしていた。
そして財を成し、屋敷を構え、一族を繁栄させるのが野望だった、とこのように物語は始まるのだが、
ローザにはサトペンへの恨みつらみがあって、ストレートに彼の生涯を話すわけではない。

 

サトペンは貧窮の生まれでひどいコンプレックスがあり、これを抱えながらハイチで財をなしこの町にやってきた。
それはすごいことなのだが、その野望のために倫理的でないこともたくさんしている。過去の遺恨がそのまま残る。
何人もの女に子供を産ませ、その子供の中の一人と、いま育てている娘が付き合おうとする。そういう因縁がある。
これが南部の閉鎖性だ。運命というか宿命というか、この土地から離れることができない空気が漂う。
『アブロサム、アブロサム!』というタイトルは『旧約聖書』から来ている。ダビデ王の三男坊アブロサムが、
母親の違う兄を殺し、次に父親を殺そうとするので、鎮圧しようとすると部下がこの三男坊を殺してしまった。
この息子を失ったときのダビデ王の叫びが「アブロサム、アブロサム!」なのだが、結局サトペンのいまの息子が、
妹と付き合おうとする異母兄弟の兄を殺してしまう。殺した息子と殺された息子、サトペンは同時に二人を失う。

 

前に出ようとすると、後ろから過去が手を伸ばして捕まえにくる。清算できない過去。これが南部である。
南部というのはそもそも成り立ちからしておかしかったんじゃないか。つまり奴隷制が経済を回していたことが。
奴隷を増やすために奴隷同士で子供を産ませ、あるいは性のはけ口として産ませ、労働の担い手を増やしていた。
それで金持ちになって名士になったとしても、すでに抱えきれないほどの業を背負ってしまっている。
そうした過去に縛られた土地の重荷をフォークナーは確かな筆致で書いたのだ。

 

 

十限目、トウェイン『ハックルベリー・フィンの冒険

マーク・トウェイン(1835-1910)は19世紀のアメリカ作家。『トム・ソーヤーの冒険』(1876)が有名。
ハックルベリー・フィンの冒険』(1885)はその続編という位置付けだが、まったく違うところへ向かう。
というのもトム・ソーヤーは少しやんちゃをするのだが、ある程度の(児童文学の)域を出ない。
トムは箱の内側にいる。大人になったら規範は守り、社会を根底からひっくり返すようなことはしないだろう。
しかし彼の親友ハックは、身につけているものといったら「反社会性」だけである。
アル中の父に育てられ、家がなく、しかもそのことを喜んで受け入れている。そんな自分を認識し、肯定している。
つまり徹底的な自由人なのだ。そしてトウェインはこの自由な生活が理想的な生き方としたのだった。

 

物語は前作で6千ドルもの大金を手に入れたハックが町に戻り、未亡人の養子として躾られるところから始まる。
しかしハックはそのきちんとした生活が息苦しくて仕方がない。お金が手に入っても、まったく嬉しくないのだ。
お金に執着のないハックはここから逃げようとするが、噂を聞きつけたアル中親父に捕まってしまう。
お金をせびる親父との生活を余儀なくされ、やはりハックはその場から逃げたしたくなってくる。
ハックルベリー・フィンは逃亡者なのだ。できるだけきちんとした生活から逃げて、自然の方に向かおうとする。
この逃亡が児童小説らしくて面白いのだが、豚を一頭銃で殺して血だまりをつくる。それを川まで引きずって、
ハックは殺人を偽装するのである。ただ逃げるのだといずれ捕まるから、追いかけられない工夫を施すのだ。

 

それが出来るハックは一人前の大人である。つまり、自由に暮らすには責任がいる。能力がいる。
自分で方針を立てて、自分で食べ物をまかない、その場から逃げる分を何でどう補うか。
本当に逃げたいのだったら、そこまで考えなくてはいけない。そういう意味で、ハックはもう大人だった。
そういうわけで、ハックは市民生活から逃げ、川の上のイカダ生活を始める。
ハックにとっては自然は脅威ではなかった。この冒険における危機というのは、すべて人間から受ける危機だった。
その道中で出会ったのが、先の養子家で使役されていた黒人奴隷のジムだ。彼は自分が売られるのを危惧して、
主人の家から逃げ出してきた。当時、奴隷の身分で逃げ出すことは窃盗罪に当たった。自分で自分を盗んだのだ。

 

ハックは今後ジムという荷物を抱えることになる。もちろんそんなことは言わないけれど、自由ではない。
逃亡奴隷は奴隷制のない北部へ向かわなければならないのだが、ミシシッピ川は南に向かって流れている。
川の上の生活は好きだけど、ジムと川で下れば下るほど南に向かうことになる。最後には逃げ場がなくなるのだ。
そして遂にジムが捕まってしまう。このままだと連れ戻されて、別の場所に売り飛ばされてしまう。
その場面がヘミングウェイも褒め称えた、黒人奴隷に対する葛藤だった。つまり逃亡奴隷を助けるということは、
共謀罪、もしくは窃盗罪になる。ハックは市民生活が嫌いだけど、野生児ではない。社会倫理は持ち合わせていた。
ハックは迷う。罪を犯して地獄に堕ちるか、自由に戻るか——「ようし、こうなったら、おれ、地獄へ堕ちてやれ」

 

ここでハックルベリー・フィンは、当時の法律、倫理、常識に真っ向から立ち向かう判断を下したのだ。
つまり彼は社会の決まり事に抗し、自分の倫理コードに従って決断をしたということだ。
この決断だけで文学史に残る価値はある。その後の二人の結末はご都合主義的なところがあるのだけれど。
余談だが、黒人を奴隷にしてもいいと喧しく叫んでいたのはどんな人たちだったか。これがプアホワイトだった。
あいつらは自分らよりも下の階級であるはずなのに、あんなに豊かで楽しそうなのは許せないという妬みの心理。
俺たちは白人なのに貧しい。だから黒人の身分なのに自由になっている奴らが許せねえ。こういう論理なのだ。

 

 

十一限目、ガルシア=マルケス百年の孤独

ガブリエル・ガルシア=マルケス(1927-2014)は、20世紀後半に活躍したコロンビア作家。
百年の孤独』(1967)は、まだこんなことが小説で出来たのか、と衝撃を世界に与えた小説だった。
つまり20世紀前半の『ユリシーズ』と『失われた時を求めて』で、小説にできることはすべてやり尽くした、
これ以降の小説は縮小再生産でしかない、というのが文学界に通底していたからだ。
もちろんフォークナーはいたし、ナボコフも登場した。だが、『百年の孤独』の衝撃はその比ではなかった。
それは南米という過去の遺産から無縁と思われた場所から、それまでの西欧的手法とはまったく違う技法を用いて、
しかもこれほど面白い、という小説はなかった、この衝撃である。

 

神話とゴシップが小説の起源だとすでに述べたが、百年の孤独』のベースにあるのは「民話」である。
「神話」と「民話」の違いは何か。神話には神様や英雄が出てきて、人より一段階高いものとして崇拝する。
民話では語り手と聞き手と登場人物が同一の地平に立っている。人は彼らを敬ったり崇拝することはしない。
浦島太郎のようなものだ。そして浦島太郎のように民話は小話で、長い話には到底耐えられないと考えられていた。
百年の孤独』は新しい手法でその常識を覆した。長文を支えるストーリーと構造があり、ベースは民話だった。

 

これはマコンドという架空の町を舞台とした、ブエンディア一族の百年の歴史の物語である。
マコンドは一族が消滅するときに同時に無くなってしまう。この地上のどこにも存在しない町なのだ。
民話的な特徴として登場人物の描写に奥行きを出さないことが挙げられる。彼らの心理に踏み寄ることはしない。
西洋ではむしろこの心理描写が微細に極められていた。そしてその極限が先の二作品だった。
もう一つ『百年の孤独』が拓いた平野が、マジック・リアリズムという手法である。
これはやはり西洋の批評家によって名付けられた概念だが、もともとはボルヘスが得意としていたものだ。
だからラテン・アメリカの作家たちは、「そう呼んでも構わないが、マジックという言葉を強調してくれるな、
我々の側からすればリアリズムの方を強調して考えて欲しい。なぜならこれがラテン・アメリカの現実であるから
と反論した。つまり西洋の側からみれば「マジック」に思えることが、彼らからすれば「リアリズム」なのだ。

 

この作品構造はフラクタルだ、と言うのが池澤の説である。
全体が細部の形をしていて、細部が全体の形をしているのがフラクタルだ。
いくつもの短編によって編まれたのが本作であり、それを要約したとしても、部分を抜き出したとしても、
あるいは全体のストーリーとして眺めても、同一のエピソードのようにみえる(本当かどうかは確かめてね)。
そしてまた池澤が持ち出すのは「羅列性」というキーワードである。
並べていく、隙間なく言葉を並べていく。情報を並べていく。熱帯雨林の自然のようにびっしりと埋められていく。
その特徴は彼らは互いに連関し合っているが、一つの支配されたコードに沿って流れてはいないということだった。
兎にも角にも、私たちの非現実が彼らの現実であるというラテン・アメリカの世界観を知る入門書にもなるはずだ。

 

 

十三限目、ピンチョン『競売ナンバー49の叫び』

トマス・ピンチョン(1937-)はアメリカの現代作家。代表作に『重力の虹』。
『競売ナンバー49の叫び』(1966)は、これまでの九作とはまったく異なる物語だ。
まず主人公の成長、体験、人生を追うものではない、ということだ。彼女は導き手であって、彼女は主題ではない。
「謎」、「謎は本当にあるかどうかという謎」、あるいは「陰謀」、何か見えないシステムがアメリカ社会に
隠されているらしい。「らしい」という兆候が見えて、主人公は謎を追っていく。しかし最後まで確証はない。
しかし「ない」とも言えない。結論が出ない。どうにも宙ぶらりんの状態が世界の様相である、というのが主題だ。
あるのかないのか分からないのに、妄想に囚われ、固執している様は他人から見たら「パラノイア」である。
この「パラノイア」について、現代で一番面白い小説を書くのがトマス・ピンチョンだ。

 

主人公エディパ・マースは平凡な主婦で、ある日の午後、彼女宛に手紙が来る。
何年か前に付き合っていたピアス・インヴェラリティという大金持ちが死去したので、遺言の内容に沿って
形見の遺産を配ったりしなければならないが、その執行人に任命されたのでボランティアでやって欲しい、
という依頼の手紙だった。それも遺言だという。仕方ないので依頼に従って色々と動いていくうちに、
彼女は普通のアメリカ郵便組織とは異なる、裏郵便組織なる存在があるのではないかという疑念に囚われていく。
その兆候をいくつも発見する。同じラッパのマークを各所で見つける。何か大きな陰謀が影にあるのではないか。
その妄想に固執する彼女を外から眺めれば、立派な「パラノイア」ということになる。

 

その謎を追っている最中に、久しぶりに家に戻るともう何もかもが壊れていることに気づく。
信頼していた精神科医は発狂し、夫はLSDでおかしくなって家に立て篭り、弁護士は女と駆け落ちする。
何らかの圧力を感じる。それでも彼女は資料を集めて、情報を読み解いて真実に迫ろうとするのだ。
謎が謎を呼び、何一つ確証のないままに断片が積み上がっていく。どうにかこれをまとめようとすると、
すべてはイタズラではないかという気がしてくる。そういう思いに囚われる。別のパラノイアが芽生える。
彼女が欲しいものは謎の究明というよりかは、「ある」か「ない」か、そのハッキリとした証拠なのだ。
そして彼女は最初にラッパの透かしを見つけた、ピアス遺品の偽物切手を競売に掛けることにした。
もし大切なものなら組織が回収するのではないか。そしてその切手の競売ナンバーが49だった、という話である。

 

これが現代アメリカの様相だ。アメリカの民主主義は、すべて表で決めているように見せかけて、
実は裏で何かの権力システムが働いているのではないか。それを一般市民は知らないだけではないか、
全部が謎に包まれている。そうしたパラノイア的な市民感情を表出したのがピンチョンなのだ。
そしてピンチョンは表にまったく出てこない。作品は作者の手を離れ、それ自体が謎であり解釈だけが存在する。

 

 

十四限目、総括

スタンダールからピンチョンまで、18世紀から20世紀までの文学史を読んできた。
小説はその時代、その国の世界観の表現である、という仮説を立て、その変遷を辿ってきた。
変化が顕著だったのはどこだったか。現在に連綿とする世界観をいち早く書いたのは、メルヴィルの『白鯨』だ。
それまでの世界像は創造主がいて、彼から派生していく統制されたディレクトリ型(私はツリー型と呼びます)。
もう一つの世界像は単に事物が羅列され、それらが勝手に結びついている秩序なき世界、羅列型。
どうやらこっちに移り変わっている、というのが文学史を通して見てきた世界像の変化だ。

 

 

人間にはどうやら事象を関連付け、分類し、並べ替え、一つの脈絡に繋ぎ合わせたい、という欲求がある。
そうやって人同士を繋げ、思想を繋げ、神話のようなもので統一すれば、世界に秩序が立つと考えられていた。
それはどうやら違ったようだ。世界はもっと混沌としていて、もっと縦横無尽に繋がっている。
池澤が尊敬する日野啓三(1929-2002)は言う。「本当に君の心に焼きついているのは、それが世界と自分について
本当に新しい発見と驚きをもたらしてくれたものは、ストーリーだったか?  いくつかの部分だったか?
本当にきらめいて残っているのは、互いに無縁の切れ切れの偶然の場面ではないだろうか。その場面と場面との間は
忘却の暗黒。誕生から現在までを繋げるひと繋がりの何かなどは、無理にこじつける意外に存在しない」と。

 

日野はこう言うのだ。脈絡なんて存在しない、あるのはこじつけだけだ。
人間の秘めた性癖、混沌とした事象の中にストーリー性を見出したい、無意味なパターンに脈絡を見つけたい。
人間とは、小説とは、この両方の間をうろうろ行きつ戻りつしているものではないか。
たとえばテレビニュースというのは、即時的に伝えなければならないために綺麗な単純なストーリーを探す。
ましてや彼らがこぞって同方向からの画一的な情報を流す。人々は「そんなに単純だろうか」と内心思っている。
今やこの時代においては、綺麗なストーリーを描かない方が誠実なのではないだろうか。
そういうまとまった図は、欺瞞なくして描けないのではなかろうか。

 

 新聞を読む、偏っている。テレビを見る、信頼できない。まとめるために他方面からの視点を捨てている気がする。
そう思ってネットを見る。ここにはありとあらゆる視点からの考察が乗せられている。その意味では誠実である。
だからといって真実が書かれているかといえばそうではない。一人一人の発信者はテレビと同程度に信頼できない。
もちろん発信者も、自分の言うことがすべて真実だと思って発信しているわけではないだろう。
一つの考え方はマスメディアと個人メディアを同一に並べ、隙間を埋めるようにして全体像を描くというやり方だ。
未熟なりにもなんとか自分の図を描くことが、結局私たちのすべきことであり主観的には真実と呼べるものなのだ。
一個人の物語についてもそうだ。ごく普通の人間が一つの人格を統合することができない、そういう時代である。

 

今や抜本的な改革を目指して統一された原理を打ち立てようとすればするほど、そこからこぼれ落ちるものは多く、
どこか欺瞞めいたものを感じずにはいられない。もはや統一された理想の社会をみんなで目指す時代ではないのだ。
だから私たちはローカルでやらなければならない。総入れ替えをするのではなく、個々の問題には個々で応じる。
また人々を統一するものはない、というのは人は物語を失って社会の狭間に彷徨っている状態であるということだ。
「パンと見世物」、この即時快楽的なお金と娯楽の消費にしか希望を見出せないことを彷徨う状態という。
積極的に生きるということは、自分なりの理想に向かうことであり、それには世界像という地図が必要だ。
しかしかつて地図を与えてくれた権威はもういない。自ら欠片を集め、繕い、それぞれの地図を作るしかないのだ。

 

私たちがこの世界に生まれ、徐々に周りの情報を認識し、人に教えられ、自ら学び、世界を再構成しようとすると、
みんなが同じ物語を作るはずはなく、つまりみんなが見ている世界も、みんなが目指す世界も異なるということだ。
それでも人は人と繋がることはできるし、世界は縦横無尽に脈絡なく繋がっていく。そこに主の意志はない。
それぞれ自分の世界は持っているかもしれないが、しかし世界の全部を一望することは叶わない。
世界に筋立ったものはなく、どうやら混沌しかないらしい。その中でなんとか意味のある断片を見つけてきて、
意味のある形に繋ぎ合わせて、それを仕事としなければならない。そしてその物語は欺瞞であり、真実でもある。