ボヘミアン・ラプソディ[千本シネマ#1]

前史
20年後——つまり45歳のとき——どんな素敵なおじさんになってやろうかと考えを張り巡らせたときに、
映画を1,000本観たと自信を持って言えるナイスミドルになっていたいという思いに駆られた。
数字に意味なんてない。ただ、少なくとも最後まで歩かなかった、と感じたいだけなのだ。(千本シネマ)

 12月1日——日本では映画の日に制定され、世界的にはエイズデーとして掲げられるこの日は記念日だった。
初めて映画館で同日に二本観た日だ。一本目が終わるや否や発券機に走り、残り二席となったチケットを買った。
巨大スクリーンが売りのIMAXなのに最前列に座ってしまい、「やってしまったな」と多少の後悔をおぼえつつ、
首を上方に傾けると映画の幕が開いた。「ボヘミアン・ラプソディ

 

 この映画は「自分がいかにQueenから多くのものを受け取ってきたか」を他人に語るための映画である。
フレディ・マーキュリー(1946-1991)が自分にとっていかに偉大だったかを、自分史と結びつけて語り合う。
普段なら多少鬱陶しく感じる年長の自分語り(すみません)も、「ボヘミアン・ラプソディ」というフィルターを
通せば全く気にならない。なぜってフレディは疑いようもなく偉大で、Queenの音楽は時代を越えて届くからだ。

 

 カッコ悪い男が最大限カッコつけるのがロックンロールの狭義だと聞いたことがある。この物語でピックアップ
されるのは、フレディのカッコ悪さゆえのカッコよさだ。それはありのままの俺を愛してくれという精神ではない。
他者からの評価をおもねることでもない。出自、容姿、性的嗜好、彼はあらゆるコンプレックスに塗れていて、
他者の愛に激しく飢えている。それでも余りある美声を武器に全英へ、そして世界へと飛び出していく。
彼が背負い込むのは世界のコンプレックスである。自身の抱えるものが強いため、彼の跳ね除ける力が世界を救う。

 

 マイケル・ジャクソンもそうだった。だから私は彼らに強く心を動かされるのだ。魂が揺さぶられるというのは、
楽曲の評価のみならず、もっと切実なメッセージが表現者から直に伝わってくるという経験のことなのだ。
だから(わざわざ言う必要もないけれど)コンプレックスもないよう(に見える)な人のメッセージは響かない。
カッコいい男がただカッコつけていても、別に何とも思わない。無論これは僻みである。ルサンチマンである。

 

 だが鬱屈した精神というのは当人には何ら幸せをもたらさないが、表現者としては大いに魅力を発揮するものだ。
素晴らしい文化は虐げられた人々から発せられるというのは悲しい皮肉だが、もし戦後にあらゆる分野から新たな
文化が生まれ、あるいは日本で虐げられてきたサブカルチャーの分野から強い発信力を持つ作品が生まれていると
すれば、おそらくそれがコンプレックスの持つ力である。

 

 Bohemian Rhapsodyは流浪者による狂詩曲だった。そんな彼らがWe Will Rock Youと、人々を立ち上がらせる。
そしてWe Are the Championsとして伝説になった。結果として彼の死はその神話性を強めることになったが、
おそらく死ぬ前からフレディはチャンピオンで、すでに伝説だったのだろう、と彼の死後生まれた私は思うのだ。