サピエンスと虚構の歌

ホモ・サピエンスと申します」え、なんだって? と僕は聞き返す。
ホモ・サピエンス」彼は、僕が聞き取りやすいようにもう一度ゆっくり発音した。
「人類っていうのは、みなホモ・サピエンスなんですよ。私も、あなたもね」
「僕が君と兄弟だっていうのかい?」冗談じゃない。頭に血を昇らせて僕は憤慨する。
「あなたは特別な存在とでも思っているかもしれませんが、どこまでも唯の動物なのです。こうして檻に入れられて見世物になっている私と同じ種類のね」
「嫌だ、やめてくれ——

 

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 自室で目を醒ますと、やにわに自意識が虚空から帰ってくる。先刻までどんな夢を見ていたかさえ覚えていない。無造作に開かれた『サピエンス全史』が手の甲に触れ、途中まで読んで眠ってしまったことに気がつく。続編となる『ホモ・デウス』が今秋発売されるというので、本棚から引っ張り出して再読しているところだった。
人類って愛らしい」な、と喉の奥から言葉が漏れる。
 えっ、自分でも意外な感想だ。少なくとも初回読んだ手触りとは違う。これがインターバルの為せる業だろうか。えー、ヒト科ヒト属を代表いたしまして一言。「人類ってカッコ悪い。斬無い。しょーもない。どうしようもない。だから愛らしい」メガホンを置く。今日はそんなカッコ悪い人類にまつわる話。

 

 

「兄弟、私たちがいつ頃生まれたのか知っていますか?」彼は檻に併設されたホワイトボードに書き込んで行く。
「250万年前。私たちと似た種の動物が地上に姿を現しました」キュキュと左端に250万年前  ホモ属誕生と書く。
「次第に彼らは故郷を離れ、その土地土地で生きるのに適した個体へと進化を遂げました」
「30万年前。彼らは火を手懐けると、猛獣を遠ざけ、調理を開始します」
「30万年前? 待ってくれよ」僕は彼を呼び止める。「それまでの間、何してたんだ?」
なにも。なにもしていません」と彼は言う。「そしてその後も長い間なにもしていませんでした。動物なんてね、なにもしないのがふつうなんです」僕は黙って彼の語りに耳を傾ける。

 

「15万年前。私たちの直属の祖先であるホモ・サピエンスが登場しました。彼らはやはり大陸の隅で身を守るだけの取るに足らない生き物でした。風が吹き始めたのは7万年前——」彼は数字を丸で囲み、僕はその言葉を繰り返す。
「7万年前」
「そう、7万年前からホモ・サピエンスは世界各地に移り住み、他の人類種を絶滅させてしまいました」
——————」絶句。なんだって。
「サピエンス種による天下統一、ホモ属の駆逐。少なくとも五つの人類種を滅ぼして王座に君臨しました」
「先祖を一方的に糾弾する権利はありません。私たちは同族ですら憎み、これまで殺しあってきたのですから」

 

「認知革命」彼は7万年前と書かれた下に大きく文字を書く。「7万年前に起きた変化のことをこう呼びます」
虚構。ここに存在しない何かについて思案する能力です。その力が他の生物が持つ能力を遥かに凌駕しています。大切なことは、同じ虚構を共有するサピエンス同士は協力しあえるということです」
「なるほど——」僕は口に手を当てる。「同様に虚構を異とする集団では、争いが起こり得るということか」
「そして、その虚構は一夜にして瓦解する可能性を孕みます。大勢が新たな虚構を信じた瞬間、革命は起こります」
 はー、そうかそうか。

 

「もはや地上唯一の人類種となったサピエンスは、しばらくの間、食べ物を求めて移り住む生活を続けていました。周囲の環境に対する知識は現代人の平均より深く、運動能力は高く、仕事時間は今より僅かでした」
「現代より幸せそうに見えるね」
「実際、そうかもしれません。研究者はこの採集時代を原初の豊かな社会(The Original Affluent Society)と呼びます。しかし、いくら羨ましく見えても巻き戻すことはできません。無数の引き返せない楔を打ち立ててきたのですから」

 

「1万2000年前。第二の大きな革命が起こります」
 ごくり、と唾を飲む。革命には表と裏がある。人類にとっても、他の動物種にとっても朗報とは限らない。
「農業革命」彼はことさら大きく文字を書き込む。「サピエンスは農業というパンドラの箱を開けてしまいます」
「爾来私たちは土地に縛られ、家畜と穀物の手入れに追われ、すなわち彼らに家畜化されることを意味しました」
「しかし、一体全体どうして彼らに夢中になってしまったんだ?」僕は前のめりになって尋ねる。
「私たちは今も昔も先への見通しが甘いということです。農業は短期的には恩恵を与えました。ですが、食料不足と農地拡大のいたちごっこに終わりはなく、農業革命は種の繁栄と引き換えに、個人には不幸をもたらしたのです」

 

「農業革命は狩猟採集時代より、ほんの少し先の未来を見据えることを要求しました」
「ほんの少し?」
「そう、定住生活は干ばつや洪水からは逃れられません。来年の不作に備えるために、暦や観測術が発達しました。そしてまた、余剰生産を行うにはマネージャーのような存在が不可欠でした」
 彼は[農業革命→定住→余剰生産→支配層の誕生]と矢印で繋いだ。そして再び余剰生産から矢印を伸ばす。
「この余剰生産が政治を生み、流通技術を生み、経済を生み、戦争を生み、また芸術や哲学の原動力となりました。ねえ兄弟、人類は今を犠牲にして未来の不安の中に生きています。それはどれだけ当たり前のことなのでしょう?」
 僕はホモ属250万年の歴史をじっと見つめていた。彼はその間に、二枚目のホワイトボードを用意するのだった。

 

「5000年前。肥沃な地域を中心として、サピエンスはより多くの人口が集まり都市を形成し始めます」
「サピエンスの比類なき特徴——虚構による種の協力、だったな」
「その通りです。都市の人々を結びつけたのは物質的な食料と虚構的な神話でした。そして日々行き交う流通の商業ネットワークと、噂話の虚構ネットワークが都市をより磐石なものにしました。それは現代でも変わりません」
「ここで登場した虚構が幾つかあります」彼はこちらを向き、一呼吸おいて話し始める。
「たとえば書記体系、多くの人民を統治する王様、多くの人民の期待に応える神様、そして貨幣が姿を現しました。これをグローバル化と差別の流れとして説明できるかもしれません」彼は四つの虚構を指差して言った。

 

「人々の経済活動を妨げる障壁は幾つか(言語・文化・信仰・生活習慣など)あり、簡単に言えば異なる虚構を信じるもの同士のコミュニケーションには時間がかかります。グローバル化はこれら別々の価値体系を解体する活動です」
グローバリズムは良いことだって習ったんだけどな」
「どの側面からものを見るか、です。円滑な経済活動においてはそうかもしれません」彼は丁寧に答える。
「単一の文字、単一の国家、単一の神、単一の貨幣は同胞の数を増やし、同じ虚構は高速な商取引を可能にします。もちろん他の虚構を否定する際には夥しい血が流れることでしょう。それは歴史上何度も起こってきた事件でした」

 

「そして同一の度量衡はまた別の問題も引き起こします。それが虚構内部のヒエラルキーと差別です」
「同じ価値観は序列を固定化させるのか」そして別の価値観の尖った個性を無下にすることでもある。
ヒエラルキーと差別は私たち以外の動物にもある自然な行いです。しかしサピエンスは異なる虚構を信じることによって異なる階層を出現させることができます。単一虚構による支配は負の側面もあることでしょう」僕は頷く。
「仮に政治と宗教と経済のトップが同じ世界だとしたら、またそれに続く官僚が固定化されている世界だとしたら、そんなつまらないことはないですよね」もはや演説と化した彼の言葉に僕は気圧される。確かに人間、一つの価値観に染まれなかったら別の価値観が暮らす場所を求めてもいいかもしれない。その移動の権利を自由と呼ぶのだろう。

 

「この後、サピエンスの歴史は教科書に載っている通りです。これをグローバル化進展の歴史と見てもいいですし、階級闘争の歴史と見ても構いません。いずれにせよ一つの側面に過ぎません。ここで、まとめに入りましょう」彼は勢いよくホワイトボードをひっくり返す。「私たちは幸せになったのか」バン、とボードを叩いた。
「サピエンスはあるとき、虚構の獲得による革命を果たしました。兄弟をみな殺しにして地上を闊歩しました。農業革命はサピエンスの人口を増やし、次は同種での協力と争いを始めました」彼の言葉に熱が篭る。
「サピエンスは豊かさの夢にうなされ、過去500年の科学革命と産業革命は以前と比べ物にならないほどの豊かさを与えました。そして豊かになれば幸せになれると誰もが信じて疑いませんでした」

 

「しかし、それこそが虚構でした。物質の豊かさは、文明の発達は、私たちの精神世界を満たしはしませんでした。多くの犠牲を払ってもなお、原初の豊かな社会、あるいは認知革命以前の方が幸せだったとしたら私たちは、」
「だが僕たちは禁断の果実を食べてしまった」彼の言葉を制して僕は続ける。
「僕らはなんにせよ手にしてしまったものを使って幸せに生きる他ないんだ。たとえそれが虚構だったとしてもね」
「そうかもしれません。私たちは動物であり、人なのですから、その両方を満たすことが幸せの道かもしれません」
 ゆっくりと微睡みの中へ意識が溶けていく感覚——

 

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 自室で目を醒ます。長い夢を見ていた。檻の中に入って、外にいる誰かに向かって喧しく叫んでいる悪夢だった。傍らに置かれた『サピエンス全史』に手が触れる。サピエンス、僕たちは動物である。しかし同時に虚構を獲得した人間でもある。一方にはどうしようもない動物的本能があり、他方には人工的に自ら作り出した虚構的規則がある。
 冒頭で「人類は愛らしい」と述べたのも、この二つの狭間で揺れ動く人類がとても愛らしいということだ。社会的ステータス(虚構)の高い人が、痴漢をしてしまうカッコ悪さ。嫁にこっぴどく叱られるカッコ悪さ。社会的な制裁。大勢の人に愛されたい欲求と、虚構で塗り固められた人間がSNSで虚構を主張するカッコ悪さ。すべて愛らしい。
 そして当然僕も——サピエンスの一員としてだっさく、見苦しく生きていくんだろうなあこれからも。

 

サピエンス全史 上下合本版 文明の構造と人類の幸福

サピエンス全史 上下合本版 文明の構造と人類の幸福