おみやげ関係とか贈与論とか

 「本当の友達が欲しい…」17歳の女子高生に鴻上尚史が助言した「おみやげ」関係とは? が巷で話題になっていたようなので、読んだ。女子高生、悩みは学校が楽しくないこと。五人グループに属する女子高生が、私なんていなくたっていいんだ、と疎外感を抱く。しかし彼女は一人になるのはイヤで、同時に本当の友達が欲しいと思っていた。

 

 回答者の鴻上尚史は、彼女に「本当の友達が欲しい理由」を尋ねる。もし「私がみじめになるのを回避するために友達が欲しい」のなら、そこに本当の友達はあらわれないと諭す。そして、「孤独から逃れるためだけの人間関係に属する苦痛」と「教室で一人になるみじめさ」とを天秤にかけ、どっちの気持ちがよりイヤかを考えさせる。続けて氏は、人間関係において「おみやげを渡し合う関係が理想だ」と言う。「恋愛も友情も、おみやげを互いに渡し合う限り続いて行く」だろう。そこで自分はどんなおみやげを渡せるだろうか、と考える。それには相手に興味を示し、相手を理解しようと努めることだ。そうして相手の気持ちを考え続ける人の前に、本当の友達は姿を見せるのだ。

 

 と、いうわけで、素敵な回答である。とくに納得するのは「人間関係はおみやげを渡し合う関係が理想だ」とするところ。「理想」と言わず、人間関係の「基本」とさえ言い切っていいかもしれない。相談に関して、上記の回答で過不足ないだろう。あとは彼女がアドバイスを受け止め、実行するか否かである。以下は記事にかこつけた蛇足。

 

 

 おみやげ関係の話を聞いて、私が思い出すのはマルセル・モースの『贈与論』、マリノフスキの『西太平洋の遠洋航海者』、クロード・レヴィ=ストロース、そして彼ら人類学者を紹介してくれた師・内田樹の「贈与論」である。モースの『贈与論』を読むと、冒頭にしてスカンジナビアの古代叙事詩が引かれ、「夜は互いに武器と衣装を贈って相手を喜ばせなければならない。互いに贈り物をし合う友同士がいちばん長続きする」という言葉が綴られる。

 

 しかしモースのこの論考は、「贈ること」に関する研究よりもむしろ「お返しすること」に主眼が置かれている。「受け取った贈り物に対して、その返礼を義務づける法的経済的規則は何であるか。贈られた物に潜むどんな力が、受け取った人にその返礼をさせるのか」と、モースは研究趣旨を説明する。贈り物をされると、何かお返しするまで気持ちが片付かない。この気持ちの片付かなさが、人を人たらしめていると人類学者たちは口々に述べている。

 

  たとえば「おはよう」と挨拶されたら、「おはよう」と返すまで気持ちが落ち着かない。「おめでとう」と祝福を言祝がれたら、「ありがとう」と感謝の意を伝える責務が生まれる。「死ね」と呪いの言葉を投げられたら、本当は同じ言葉を返してやるまで気が済まない。物や言葉以外にも、たとえばアイドルのひたむきな努力に励まされたり、好きな人の顔を見ただけで気分が高揚したり、逆に嫌いな人の挙動一つひとつに不快な気分を抱いたとき、直接的にしろ間接的にしろその人に贈り物を返したい欲求に苛まれる。これが共に生きる人類の共通項である、と。

 

 大切なことは、贈り物にその価値を賦与する決定権は受け取り側にあるということだ。人類学者の言葉を引いて、うっちーはそう述べる。贈与の意味は、受け取っちゃった側の負債の中に存在する、贈り手の内には無いのだ、と。同じ贈り物、同じ言葉でも、受け手によってそれの持つ意味は変わってくる。そうして受け手が義務を返済し終えたとき、事後的に送り主はその価値を知る、というプロセスが贈与の、ひいては経済のサイクルだと言うのだ。

 

 面白いのは、等価交換、特に貨幣のようなすでに両者に価値が共有されたものを介する取引きには、そこで関係がストップしてしまうという特徴を持つことだ。事務的に商品と貨幣を交換するコンビニ店員に、あるいはスーパーのセルフレジに、私たちは何の気持ちも抱かない。商品以外に何も受け取らないし、後腐れがない。この貨幣を介した取引きが人類の経済を爆発的に促進させたのは改めて言うまでもないだろう。この色のない貨幣を使って、私たちは誰とだって交換ができる。何せ貨幣以上の返済義務を負うことはないのだから、これ以上関係が続くことはない。

 

 だが、贈り物というのは等価交換のことではない。贈り手が贈与するのは、その場では価値のよく分からないものである。その贈り物に勝手な価値を見出すのは受け取り側であり、受け取り側が価値を創造して返礼するのである。そして身に余る返礼に対してまた贈り物が返される。こうした不均衡の価値の交換が人間関係を基礎づけている、とこうした贈与に対する思い違いがコミュニケーションの根幹を為しているとの説明に私は強く納得するのである。

 

 うっちーは教育者であるので、「働くこと」と「学ぶこと」についても贈与論に即して論じている。曰く、教育というのは非対称な営みである。先生が何かすでに価値の決まったものを、生徒の勉強時間や両親の出資と引き換えに授ける、そんな即物的なものではまったくないということだ。贈与論の文脈で言うならば、教師の身勝手な贈り物に価値を見出すのは生徒の役目なのである。教わってから何年、何十年経った後かもしれない。その瞬間はある日突然やってきて、ようやく手渡された物の価値に感動するのだ。それは生徒の勝手な思い違いかもしれない。それでいいのだ。その落差が先生と生徒の関係を生み出すのである。それは等価交換では決して生まれない師弟関係なのだ。

 

 働くことはどうだろう。働くことの価値もまた労働者の中には存在しない。その働きが「贈り物」だと受け取った他者がいてはじめて価値が発生するというわけである。だからそれが労働であるかどうかは事後的に決定するのだ。ゴッホの絵画は、彼の生前にはただの落書きとしてみなされた。死後、評価するものがいて、欲望する他者がいて、ようやく彼の絵画に価値がついたわけだ。これが贈与論に即した労働のプロセスである。したがって言われたことを粛々とやるだけの労働者——つまり労働を賃金との等価交換としかみなさないものの前に繋がりは生まれないのだ。

 

 最後に友人関係について考えてみたい。鴻上氏の言うとおり、相手の気持ちを考えて、おみやげを渡すような人の周りに人間関係は生まれる。それは四半世紀生きてきた実感として納得である。新しい場所で人間関係をつくろうと思ったらそうするのが大人のマナーだろうし、子どもが生まれたら「そういう大人になりな」と言うかもしれない。ただまあ、結構いいかげんなことを言うが、人には内向き・外向きの性格がある。内向きとは自分の中に評価の軸がある人のことで、外向きとは自分の外に評価の軸がある人のことである。クラス内分布は50対50としておこう。

 

 件の質問者に対しては、氏の回答がパーフェクトである。だが、私のような内向きに服を着せたような人間には、学生時代なんか、もっとわけの分からないおみやげをぶつけ合って遊ぶことも重要だったりする。なぜなら、好きをぶつけて内なる価値を発見することも学生時代の果たすべき役割だからである。それで多くの友達が離れていったとしても、たった一人残るかもしれない。人間万事塞翁が馬、処世術は30歳までに身につければいい(暴論)。

 

 「孤独から逃れるためだけの人間関係に属する苦痛」と「教室で一人になるみじめさ」というのは、私が言うなら「外向き・内向きどっちか考えてね」って話になる。大人になれば、自分の魂の籠った創作は自分の世界観100%、それ以外の場では人を慮るというバランス調整が内向き人間にもできるようになる。学生時代ってのは、人間関係を構築すると同時に人と衝突して自分の価値観を推し量る場所でもあるから、好きに贈ったらいいんじゃないかしら。

 

 

*参考文献
マルセル・モース『贈与論』2009 筑摩書房
内田樹「働くことの意味なんて、上機嫌に働いている人だけしか分からないもの」2009 文藝春秋日本の論点 2010』収録
内田樹『街場のメディア論』2010 光文社
内田樹『呪いの時代』2011 新潮社