『世界文学を読みほどく』ツリーから羅列へ

本を読み、文字を重ねる。そのとき、何を目指して打鍵するのか。あるいは誰を。
人に本を勧める文章は、それを購入させる動線を担うのか、感動を分かち合う相手が欲しいのか、
その紹介を通じて個人でも社会でも世界でも何かが変わればいいと思っているのか。

 

その意識はそのまま相手に伝わる。熱量、その目的の浅薄さに辟易とする。

 

自分に向かって書いている。過去の、現在の、未来の私に向けて書く文章は、ある程度の独りよがりと、
それと同じくらい開放性を持たなければならない。そうしなければ何も繋がらない。
何も繋がない文章に、いったいどれほどの価値があるだろう?

 

 

講義が始まった。
「小説」という形式が、19世紀に西欧である意味では完成し、「小説の幸福期」という時代あった。
はたして小説はいま幸福なのか、あるいは19世紀に出来た形がどう変わってきたか、これからどうなるのか、
この変遷をスタンダールからピンチョンまで通して眺めようというのが当講義の目指すところである。
小説というのは、この世界を表現する道具の一つであり、世界が変われば小説もどんどん変わっていく。
だから登場人物とストーリが「どういう世界」で事が進むか、それをまず掴むことが読解の初歩だ、と言う。

 

2世紀頃のギリシャ文学『ダフニスとクローエ』は最初期の恋愛小説だが、
このときすでに「恋をしている男女が障害を乗り越えて結ばれる」という基本形が成立している。
この障害というのが世界の様相を映し出す。この時代の障害を物語という形で描き出すのが作家の役割である。
二人を阻む身分の差、貧富の差、戦争、病気で逢えない。女性が攫われてしまう。男性が誘惑されてしまう。
こうした基本形は古くから存在し、古代ローマ、平安の日本、清朝中国など暇を持て余す場所に文学は生まれた。
文学が本当に隆盛したのは、グーテンベルク活版印刷が普及してからここ300年ほどのことだ。
西洋における市民社会の成立と識字率の向上、暇のある読者の誕生、本を売買する商いがはじまる。
次第に専業作家が生まれ、それだけで作家が暮らせる時代になった。そうした時代があった。
しかし、これは過去300年の特異な出来事だったかもしれない。小説を買う人口は減少の一途をたどっている。

 

カート・ヴォネガットが書いた『スローターハウス5』の作中に、こんな一節がある。
「人生について知るべきことは、すべてフョードル・ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の中にある、
と彼はいうのだった。そしてこう付け加えた、『だけどもう、それだけじゃ足りないんだ』」。
カラマーゾフの兄弟』は人の情熱について、理性について、信仰について——これらの事柄を三兄弟が体現し、
およそ人間の本質というものの希望と絶望とが物語を通じて考察されている。それが19世紀末に書かれた。
そんな小説に対する「だけどもう、それだけじゃ足りないんだ」というヴォネガットの台詞は、
いくら最高の小説が過去に書かれようとも、私たちを取り巻く世界は刻々と変化しているわけで、
その変化に対してその時代の作家が格闘する。いま私たちはどういう「場」に生きているのか苦心して表現する。
だから小説というのはいつの時代も書き続けられるのだ、という宣言なのだ。

 

小説を遥か昔まで遡ると、一つ「神話」という起源にたどり着く。
池澤は「ゴシップ(噂)」というのも小説の起源に深く関わっているのではないかと述べる。
人は他人の身の上について非常に強い関心を持っている——これは人類に共通する性質だ。
「神話」は「神様に関するゴシップ」と考えることもできよう。
古事記』はヤマトタケルに関する噂。『ギリシャ神話』は神々に関する噂。
小説というのは他人の噂話だ、とだって言える。その話を聞く人とはまったく関係のないことだ。
しかし、その関係のない話に私たちは強く惹きつけられる。この「他者への関心」が小説を駆動させる力だ。
(そうだとするならば、自分のことでいっぱいなときほど小説への関心が薄れることになりますね。)

 

 物語。「物」を「語る」。「物」はやや物質的で、「事」はやや現象的だ。
「語る」とは、単に話すこととは違う手触りがある。そこには始まりがあって事件が起こり終わりを迎える。
言い換えれば、時間経過に伴う主体の変化がある。おそらくこれが物語であろう。
今ではない、過去か未来か、それも他者の時間を外挿(extrapolate)する、外へと延ばして行く。
時間感覚の移動、これが物語という形式に必須な想像力のことではないか、と。 

 

 

二限目が始まる。
事件の前後によって人が変化する。小説というのは、この人間の動きに目を奪われがちだが、
それと同じぐらい、いやそれ以上に「場」「舞台」というものの重要性を池澤は訴える。
演劇と同じである。芝居が始まると、人は演者に惹きつけられるが、実は舞台がなければ何も始まらない。
つまり場=舞台=空間=世界があって、それと人との相互関係によって物語は進展して行くわけだ。

 

この「場」というものの説明は、小説における客観性を担保する。
人が一人考え、行動する。ここに現れるのは行動する主体の主観のみである。
そこに客観性を持つ「場」が与えられる。おそらく順序は逆だろう。舞台があって、人物がいて、行動がある。
それは生きることの基本である。生まれたときすでに世界があって、自分がいて、その影響下で行動する。
私たちは次第にこの世界の説明を要求する。因果関係、世界がこうであるから私は今こうしている、と。
この世界と私たちのあいだを繋ぐのが想像力であり、物語である。繋ぐから、双方に意味が生じるのだ。
(想像力=繋ぐ力。世界と私たちを結びつける力、過去と未来を結びつける力のことだと理解します。)
だから物語というのは、まず「場」がある。ここに人物が登場して、移動して、出会いがあって、結末がある。
と、いうことで次はいよいよスタンダールの作品から。

 

 

 

 

三限目、スタンダールパルムの僧院
スタンダール(1783-1842)は19世紀前半のフランス作家。代表作は『赤と黒』(1830)。
パルムの僧院』(1838) は、イタリアのパルム公国を舞台とした、魅力的な男の生涯の物語である。
その彼の運命に、これまた魅力的な叔母が絡んでくる。一言で言ってしまえばそういう物語だ。
テーマとして「幸福」の概念が中心にある。彼らは不幸に見舞われるが、それも含めて幸福という印象を受ける。
通常、小説にはなんらかの現実批判が含まれるが、この作品の場合ほとんど前面化してこない。
主人公たちの生き方が、作者によって強く肯定されている。こういう生き方もありうるのだと、褒め称えている。
では、なぜこの作品から幸福感、祝福のイメージを受けるのか。その解読をするのが今回の講義である。

 

この話を動かすのは二つの力だ。 一つ目は王宮の「政治」。二つ目は人物の「魅力」。
パルムの僧院』は、パルム公国という狭い世界で、しかも政治と魅力という限られた力で物語を動かしている。
それでも活き活きとする理由は、スタンダールがこの物語を全面的に信頼しているところにある、と池澤は読む。
通常、小説家の内面には必ず一人の批評家がいて、自分が書いたものをリアルタイムで批評している。
小説家と批評家との内なる葛藤、論争、殴り合いの結果、作品が生まれてくる。
だから実は小説を書きたいけど書けないという人の内面は、批評家の発言力の方が強い状態なのだ。
これを一つは技術力によって、説得力によって、あるいは腕力によってねじ伏せる。
小説家の発言力が批評家を上回ったとき作品は世に出て行く。

 

スタンダールはこの作品を口述筆記で書き上げた。それも二ヶ月も経たない期間で。
頭の中に物語が出来上がっていて、途中でためらいがない。そのドライブ感が作品を通して伝わってくる。
彼はフランス生まれの作家だが、生涯イタリアという国に魅了され続けた人間でもある。
イタリア人の生き方や考え方を理想に置き、イタリアの女性を愛し続けた。
彼らが持つものは情熱、パッション、つまり自分の心に正直に思いのまま生きるという態度だ。
パルムの僧院』は、そうしたイタリア的な物の考え方をフランス人に教えようとした小説だったのではないか。
スタンダールは非常に惚れっぽい性格で、自分が好きなタイプの人たちについて書きたいという欲求があった。
作者が登場人物たちを愛し、なぜ好きなのかと彼らの魅力を語るから、この物語は幸福感に溢れているのだ。

 

一方、ウィリアム・ゴールディング『蠅の王』のように作者が登場人物を愛していないだろうという作品がある。
読者に疑問を突きつけて、現実のことについて「ちょっと待てよ」と立ち止まらせることを目的としている。
スタンダールはそうではない。政治的駆け引きと、恋の駆け引きによって物語を駆動させ、
読者を最後まで立ち止まらせることなく滑らかに連れて行く。登場人物の行動倫理に何の疑問も抱いていない。
自信を持って書いている。非常に幸福な、作者と登場人物と読者の関係がありうるのだと、彼から学びたい。

 

 

四限目、トルストイアンナ・カレーニナ
レフ・トルストイ(1828-1910)は19世紀ロシア文学の巨匠。他に『戦争と平和』(1869)。
アンナ・カレーニナ』 (1877)は、高官の人妻であるアンナが若い将校と恋仲になり、一緒に暮らし始めるが、
やがてすべてがうまく行かなくなり、絶望したアンナが悲劇の結末を迎えるという話だ。
有名な書き出しは「幸福な家庭はすべて互いに似かよったものであり、不幸な家庭はどこもその不幸のおもむきが
異なっているものである」。つまり幸福な家庭は円満で、不幸な家庭はそれぞれに欠けた部分がある。
それに続くのは「オブロンスキー家ではなにもかも混乱してしまっていた」。ここから不幸な家庭が描かれる。

 

この家庭に訪れる不幸は、不倫による夫婦のすれ違い——夫が家庭教師としてしまった不倫に対し、
妻の方は酷い悲劇だと思っている。しかし当の夫は「妻にバレちゃった」程度の軽い認識でしかない。
この不倫を仲裁するために登場したのが、夫の妹アンナ・カレーニナである。
アンナは兄に会うために汽車に乗り、モスクワ駅で将校ヴロンスキーと出会う。
彼は(この辺ちょっとややこしいけれど)さっきの浮気された妻の方の妹キチイに求婚しようとしていたが、
駅で見かけたアンナに一目惚れしていて、同じくアンナも人妻の身でありながら彼が気になってしまっていた。
一方キチイにはもう一人求婚者がいて、農場主のリョーヴィン。この辺りの恋愛模様が複雑に絡み合っていく。

 

不倫を仲裁しつつも、結局自分も不倫をすることになってしまったアンナの人生は徐々に崩れ始め、
リョーヴィンとキチイの純愛夫婦は幸福な家庭を築く。パートナーを信じられない家庭は不幸を招く。
こうしためくるめく物語(池澤に言わせればメロドラマ)が、トルストイの筆致によって描かれていく。
池澤の目には、この物語の作られた感、支配された感がどうも気になるらしい。
たとえば物語前半に凄惨な轢死体を見せ、それと同じ運命を不貞なヒロインが辿るという悲劇。
作者の言いたいこと——「誠実に、純潔に」というメッセージのために配置されたような登場人物たち。
彼らが勝手に動き出すというよりは、全能の作者によって動かされたような物語が、どうも好きになれないようだ。

 

 

五限目、ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟
フョードル・ドストエフスキー(1821-81)は同じく19世紀ロシアの文豪。他に『罪と罰』(1866)。
カラマーゾフの兄弟』(1880)は、彼の死ぬ間際に描かれた最後の長編小説である。
軸をなす物語は殺人事件の解析だ。人物の混み合った関係性があり、その構造の上に作者の思想が乗っている。
カラマーゾフ家には父と三兄弟と使用人が住んでいた。三兄弟にはそれぞれ異なる性格が割り振られ、
長男ドミートリイ(愛称ミーチャ)は「情欲」、衝動的、快楽への意思、しかし野生的な魅力がある。
次男イワン(愛称ワーニャ)は「理性」、合理的、無神論で「神がいなければ、すべては許される」と言う。
三男アレクセイ(愛称アリョーシャ)は「信仰」、ロシア正教会のクリスチャン修道院に出入りしている。
それから使用人スメルジャコフがいて、強欲な父フョードルが一家の主人である。

 

このカラマーゾフ家の血筋には、どうやら好色の気があって、放蕩の気があって、欲望に突き動かされている。
それを次男は理性で、三男は信仰によって押さえつけているに過ぎず、全員がその性格を持っていた。
この溢れ余る生命力をどう手懐けるか、抑えない方がいいのか。それから幸福のために神を信じるべきか否か。
こういった議論が物語の中心に渦巻いていて、それを周囲がぐるりと囲んでいるようにみえる。
だから生きるということをどれだけ味わい尽くすか、どれだけ抑えるべきか、それを考える教科書にもなる。

 

「欲望と制御」「信仰」という二大テーマの他に、もう一つ「ロシア」というキーワードが横たわっている。
当時のロシア——1861年農奴制が解放されたばかりのロシアでは、ヨーロッパの後進国だという自意識があった。
この国をどう築いていけばいいか、インテリたちは散々議論するが、何も進展しない無力感が漂っていた。
しかし、民衆はロシア正教会を信じて結束する強さを持っていた。ドストエフスキーは彼ら民衆を信じた。
最終的にロシアを前進させるのはフランスのような武による革命ではなく、民衆への信頼だという未来像があった。
彼はその思想を書にしたため、次の世代に託す。その証拠に物語には子供たちが何人も出てきている。
非常に多くのテーマが含まれている。父親と長男が一人の女を巡って争い合う恋愛話とも要約できるし、
父親殺しの犯人を見つけるミステリとも要約できる。裁判小説に変化をみせ、思想的、宗教的な要素は強く、
家族話としての側面もあり、少年たちも活躍する。なるほど19世紀文学の大傑作たる所以がこの総合小説なのだ。

 

カラマーゾフの兄弟』を語る上で、どうしても外せない大事なシーンがある。
これが一般に「大審問官の問題」と呼ばれるものだ。
次男イワンは、なかなか会えないにしても三男アリョーシャに充分深い愛情を持っていた。
無神論者のイワンとしては、アリョーシャの敬虔な態度をやめて欲しいと思っていて、こんな問いかけをする。
キリスト教にどれほどの力があるか」。彼が例にあげるのは子供たちの受難、児童虐待のスクラップ記事だ。
農奴の子供が猟犬に怪我をさせたのを領主が怒り、その子供を裸にして猟犬に追わせ、殺させた事件があった。
イワンは、この領主は銃殺されてもいいと思わないかと尋ねる。「銃殺です!」アリョーシャが咄嗟に答える。
彼はハッとなる。「ばかなことを言ってしまいましたけど、でも……」「そのでもってのが問題なんだよ……」
「この世の中をよくするために、そういう子供たちの受難が必要なんだとしたら、自分はそんなものはいらない」
イワンは言う。殺された子の親と加害者が互いに抱擁しあって、「主よ、あなたは正しい」と讃える日が来ても、
俺はそんな最高の調和なんぞ全面的に拒否するんだ。そんな調和なんて、あの子供一人の涙にさえ値しない、と。

 

つまりイワンは、目の前の子供を救えないキリスト教に価値はない、とアリョーシャに言うのだ。
それでも「キリストはすべての不幸を相殺する」と動揺しながらも譲らない三男に、イワンは叙事詩を聞かせる。
これはイワンが創作した叙事詩で、異端審問が喧しい中世のスペインにキリストが復活したという話だ。
町を歩くキリストは人々を次々と救ってみせる。その様子を見た大審問官が「何しに来たんだ」と問い詰める。
お前がしていることは、人々を幸せにすることなのか。私たちはお前なしでやってきた。制度を維持してきた。
お前は神を信じることは自由意思であることを期待するが、普通の人間には自由意思なんて耐えられない。
だから教会が代わりに権力を以って、自由を束縛し、服従を誓うことで魂を救済するシステムを組み上げたのだ。
今さらやってきて自由を与えられてたまるか。それで人間が幸せになると思うか、と大審問官は問う。

 

大審問官の問いは非常にラディカルで、また現実的な話をしている。これが多くの読者にショックを与えた。
普通の人々は、奇跡に、パンに、慣習に、恐怖によって縛られなければ一歩も歩くことはできない。
自由意思なんてものは人間の手に負えない。人は自由意思による魂の救済より、奴隷になれるものを欲する、と。
現代でも人はパンと見世物に終始する。ドフトエフスキーの時代にはなかった、大衆操作の技術が発展し、
パンを右から左に流すだけの扇動的な仕事が横行している。すぐに快楽が与えられる見世物に人々が集まる。
長く生きらえたい無能政治家は、自分の理念より先に(しばしば国外の)敵に注目を集め団結させようとする。
そうした理想なき世界で、パンと見世物に釣られるだけの即物的な大衆に、池澤の溜め息が漏れるのだ。
(ともあれ、もう少しよく考えたい話題なので、次一年間かけてドストエフスキーに挑戦しようと思います。)

 

 

六限目、メルヴィル『白鯨』 

ハーマン・メルヴィル(1819-91)は19世紀のアメリカを代表する作家だ。
『白鯨』(1851)、原題は "Moby-Dick" 巨大鯨の名前である。
時代的には『アンナ・カレーニナ』や『カラマーゾフの兄弟』よりも前に書かれたが、二作品より現代的だ、と
池澤は言う。その証拠に19世紀には評価されず、20世紀に入ってようやく評価され始めた。
物語はイシュメールという男が、休暇がてら(金がないから仕方なく)乗り込んだ捕鯨船ピークオッド号から、
命からがら生き延びた、その回想の記録という形で始まる。この話でイシュメールは語り部としての役割を持つ。
実際に鯨と戦うのはピークオッドの船長エイハブだ。彼はかつて巨大鯨と格闘して片足を千切られた経験がある。
彼は巨大鯨モービ・ディックにもう一度出会い、雪辱を果たしたい。
よって、この物語はエイハブが港を離れ、宿敵モービ・ディックと戦うまでを描いた単純なストーリーなのだ。

 

では、中盤には何が書かれてあるのか。ずっと鯨の話である。鯨の種類、語源、生態、解剖、ありとあらゆる鯨学。
捕鯨船に乗る船員紹介、いかにして鯨を見つけ、どう動いて、追いかけ捕まえるか。人類にとって鯨とは何か。
ひたすら鯨に関する知識が小説という容器に詰め込まれている。ここに池澤は現在との接点を見出す。
一つはグローバル的な小説ということだ。上記三作品はドメステックな物語だった。
鯨は全世界に散っていて、この時代は鯨油を目指して捕りに行く。鯨肉は捨てていた。
たとえば黒船来航は1853年(黒船来航、人は混み)のことで、捕鯨船の燃料基地確保の目的もあった。
また水夫は世界中の港から集まっている。インディアン、アフリカ、太平洋の島、インド、ヨーロッパ、南米‥。
しかし船を操縦するのは白人で、白鯨に銛を打つのが非白人というのはメタファーである、というのが読みだ。

 

それから池澤が注目する現代的ポイントは、項目の羅列性である。これが19世紀には新しすぎたと指摘する。
真ん中にドン、とあるのは鯨の百科事典。鯨をキーワードとした森羅万象に関する知識の詰め合わせである。
あいだ18章のチャプターのどこをどう入れ替えても構わない。すべて結末に向かって流れているわけではない。
メルヴィルが示したかったのは、世界の構造はそもそも羅列的である、ということだ。
世界は一体の神から派生したツリー型の構造をしていない。全体を統一するものはない。
世界は個々の項目の羅列によって成り立っていて、その間には関係の強いものと弱いものがあるだけである。
これをキーワードでまとめると、「データベース」ということになる。(ポストモダンっぽい!)
メルヴィルは「データベース」という言葉が登場するまで長い時間待たなければならなかったのだ。
このデータベース的小説の一つ一つの項目に言及するのはナンセンスなので、この時限はこの辺で。

 

 

七限目、ジョイスユリシーズ 

ジェイムズ・ジョイス(1882-1941)は20世紀前半のアイルランド作家。
ユリシーズ』(1922)の特徴はその密度と長さ。普通の読者を無視した、非常に読みにくい小説である。
しかし研究、謎解きの対象としては止められないくらい面白い。『源氏物語』や『紅楼夢』のように夢中になる。
20世紀に入ってから最も解析的に読まれたのが、この『ユリシーズ』と『失われた時を求めて』(1913)だった。
なぜかといえば、一限目に述べた「神話」と「ゴシップ」という概念をそれぞれ極めた小説だからだ。
小説というのはここまで出来るという、力の限りを尽くした小説がこの二作なのだ。

 

では、どういう工夫が施されたか。中心人物は三人。文学を志すスティーヴン、新聞社の広告営業レオポルド、
その妻でセミプロ歌手のモリー。この三人が『オデュッセイア』の主要人物と重ねられるのが基本アイディアだ。
オデュッセイア』になぞられるような大筋のストーリの中に、しかも1904年6月16日という限定された一日に、
神話的な人の動き、ヨーロッパ思想の潮流、それからアイルランドという国の問題点が全部詰め込まれている。
それから文体的なアイディアがある。全18章からなる小説だが、すべての章で文体が異なるのだ。
13章はハーレクイン・ロマンス的文体、17章はカトリックの教義問答的な口頭試問が繰り広げられ、
18章にはカンマもピリオドもないモリーの独白など、ありとあらゆる文学的技巧が各章に織り込まれている。

 

ジョイスが試みたことは何か。一つ言えるのは、たった一日のことを数千ページにわたって書き尽くしても、
その一日のことすら全部を記述することは到底できない、ということである。世界全部は見て取れない。
たった一つの都市、たった三人の中心人物、たった一日でも書くことは山ほどあり、その極限を目指している。
三人の周り百人以上の人物が登場し、彼らとの会話をきっかけにヨーロッパ精神史の、人類史全体の記憶まで遡る。
もちろんストーリーは存在し、時系列に沿って物語は進んで行く。しかし、すべてが結末に結びつくわけではない。
細部が増殖し、様々な記憶を繋ぐ糸として三人がいる。やはり羅列的であり、データベース的な意味を持つのだ。

 

 

八限目、マン『魔の山 

トーマス・マン(1875-1955)は20世紀ドイツの作家。他に『トーニオ・クレーガー』『ヴェニスに死す』。
魔の山』(1924)が書かれたのは、第一次世界大戦(1914-1918)後のワイマール共和制時代である。
ドイツという国はコンプレックスがあった。小国が乱立していて、統一されてまとまるのが遅かった国であり、
パリやロンドンのように中心となる集権都市がない。つまり地方に人や産業が分散して分権的であるということだ。
第一次世界大戦は一世代の若者をまるまる亡くし(参照:デュ・ガール『チボー家の人々』)、
ましてや敗戦国のドイツでは立ち直れない雰囲気が漂っていた。ナチス台頭前のことである。
トーマス・マンは、ある時期まではドイツ愛国主義者で、ドイツを内側からなんとかしようという思いが強かった。
だがナチスの台頭に連れ国際主義になっていく。やがてアメリカに亡命しナチスに抗する形で活動した作家である。

 

魔の山』はBildungsroman(教養/自己形成小説)の一つで、若者が一人前になるその成長過程を描く物語だ。
社会と人の幸福感には矛盾があり、たとえ社会が平和でも人は必ず幸せになれるわけではない。
一人の若者が育っていく過程でその矛盾と衝突しなければならない。それを乗り越えて人格は形成されるのだ。
物語の主人公はハンス・カストルプ。大学を卒業し、ハンブルグで造船技師を志す24歳である。
彼がスイスにあるサナトリウムで療養する従兄弟のヨーアヒム・ツィームセンを訪ねるところから話は始まる。
カストルプは見舞いのための短い滞在だったのだが、ある日結核に感染し、それから七年間居着くことになった。

 

山の上の隔離されたサナトリウムで、彼を成熟へと導くのは周囲の患者たちだ。
啓蒙的で人文主義者のセテムブリーニと、神秘主義的なユダヤ思想のナフタ。この二人が激しく言い争う。
開かれた思想の前者と、閉じた思想の後者。またペーペルコルンという男が議論を超え、生そのものを肯定する。
人は立場が違ういくつもの意見に引き裂かれたとき成熟するのだと、中立国スイスで行われた議論が体現するのだ。
池澤は、議論を一つの思考実験だったと読む。一人の青年の人格形成を通して、ヨーロッパの人格形成に喩えたと。
欧州経済共同体(EEC)発足は1957年のことであるが、バラバラだった欧州諸国がなぜ繋がろうとしたかといえば、
トップをひた走るアメリカの存在が大きい。サイズは一国では敵わない。だからまずは経済で協力しようとした。
マンは戦後にあって、ドイツだけで考えていてはダメだ、ヨーロッパ規模で考えなくてはいけないと危惧した。
その思想がこの小説で先取りされている。彼はヨーロッパ思想のそれぞれの立場を総ざらいしようとしたのだ。

 

 

九限目、フォークナー『アブロサム、サブロサム!』

ウィリアム・フォークナー(1897-1962)は、20世紀を代表するアメリカの作家である。
彼はほとんどの小説をヨクナパトーファ群ジェファソンという架空の街を舞台に創作活動を行った。
モデルは彼の故郷ミシシッピ州ラファイエット群であり、一連の作品は「ヨクナパトーファ・サーガ」と呼ばれる。
100年前のオノレ・ド・バルザック(1799-1850)も同様のことをしていて、パリを舞台に一連の小説を書いた。
両者に共通するのは、同じ人物や場所があちこちの小説に書かれ、それらを繋げると濃い地域性が出ることだ。
特にフォークナーは架空の街であるから綿密に地図を作り、建物や川や付随するエピソードも書き込んでいた。

 

そんな限定された強い地域性を持つ彼の作品は、一家没落の話が多く、これが非常に面白い。
『アブロサム、アブロサム!』(1936)はトマス・サトペンという主人公が成り上り、没落する話である。
その彼の(あるいは一族の)歴史が二つの側面から語られる。決して客観的な筋の通ったものではない。
歴史をまとめられる人はいない。他者の主観によってしか語ることができない。それがフォークナーの主張である。
クエンティンという学生が、彼のルームメイトにサトペン一族のことを話すというスタイルで話は進められる。
彼の祖父はサトペンのほぼ唯一の友人で、その祖父からサトペンの話を聞いていたというのが一面。
また、サトペンの妻の(うちの一人の)妹ローザが晩年になってからクエンティンに語ったというもう一面がある。
そしてこの両者から見たサトペン像は溶け合わない。それでもなんとか友達に伝えるときに綜合して語られる。

 

どうしてこのような複雑な作りになっているかというと、そうしなければ南部のことが伝えられないからだ。
アメリカ南部のコンプレックス。奴隷制によって栄え、その倫理観を突かれて崩れていった地域。
南北戦争(1861-1865)によって敗れ、それから気力がなくなっていき、ただ栄光を偲ぶだけの時代。
トマス・サトペンが黒人奴隷を多数引き連れてジェファソンにやってきたのは1833年のことだった。
彼は土地100平方マイル(約260k㎡)を購入し、プラテーションをこの地で展開しようとしていた。
そして財を成し、屋敷を構え、一族を繁栄させるのが野望だった、とこのように物語は始まるのだが、
ローザにはサトペンへの恨みつらみがあって、ストレートに彼の生涯を話すわけではない。

 

サトペンは貧窮の生まれでひどいコンプレックスがあり、これを抱えながらハイチで財をなしこの町にやってきた。
それはすごいことなのだが、その野望のために倫理的でないこともたくさんしている。過去の遺恨がそのまま残る。
何人もの女に子供を産ませ、その子供の中の一人と、いま育てている娘が付き合おうとする。そういう因縁がある。
これが南部の閉鎖性だ。運命というか宿命というか、この土地から離れることができない空気が漂う。
『アブロサム、アブロサム!』というタイトルは『旧約聖書』から来ている。ダビデ王の三男坊アブロサムが、
母親の違う兄を殺し、次に父親を殺そうとするので、鎮圧しようとすると部下がこの三男坊を殺してしまった。
この息子を失ったときのダビデ王の叫びが「アブロサム、アブロサム!」なのだが、結局サトペンのいまの息子が、
妹と付き合おうとする異母兄弟の兄を殺してしまう。殺した息子と殺された息子、サトペンは同時に二人を失う。

 

前に出ようとすると、後ろから過去が手を伸ばして捕まえにくる。清算できない過去。これが南部である。
南部というのはそもそも成り立ちからしておかしかったんじゃないか。つまり奴隷制が経済を回していたことが。
奴隷を増やすために奴隷同士で子供を産ませ、あるいは性のはけ口として産ませ、労働の担い手を増やしていた。
それで金持ちになって名士になったとしても、すでに抱えきれないほどの業を背負ってしまっている。
そうした過去に縛られた土地の重荷をフォークナーは確かな筆致で書いたのだ。

 

 

十限目、トウェイン『ハックルベリー・フィンの冒険

マーク・トウェイン(1835-1910)は19世紀のアメリカ作家。『トム・ソーヤーの冒険』(1876)が有名。
ハックルベリー・フィンの冒険』(1885)はその続編という位置付けだが、まったく違うところへ向かう。
というのもトム・ソーヤーは少しやんちゃをするのだが、ある程度の(児童文学の)域を出ない。
トムは箱の内側にいる。大人になったら規範は守り、社会を根底からひっくり返すようなことはしないだろう。
しかし彼の親友ハックは、身につけているものといったら「反社会性」だけである。
アル中の父に育てられ、家がなく、しかもそのことを喜んで受け入れている。そんな自分を認識し、肯定している。
つまり徹底的な自由人なのだ。そしてトウェインはこの自由な生活が理想的な生き方としたのだった。

 

物語は前作で6千ドルもの大金を手に入れたハックが町に戻り、未亡人の養子として躾られるところから始まる。
しかしハックはそのきちんとした生活が息苦しくて仕方がない。お金が手に入っても、まったく嬉しくないのだ。
お金に執着のないハックはここから逃げようとするが、噂を聞きつけたアル中親父に捕まってしまう。
お金をせびる親父との生活を余儀なくされ、やはりハックはその場から逃げたしたくなってくる。
ハックルベリー・フィンは逃亡者なのだ。できるだけきちんとした生活から逃げて、自然の方に向かおうとする。
この逃亡が児童小説らしくて面白いのだが、豚を一頭銃で殺して血だまりをつくる。それを川まで引きずって、
ハックは殺人を偽装するのである。ただ逃げるのだといずれ捕まるから、追いかけられない工夫を施すのだ。

 

それが出来るハックは一人前の大人である。つまり、自由に暮らすには責任がいる。能力がいる。
自分で方針を立てて、自分で食べ物をまかない、その場から逃げる分を何でどう補うか。
本当に逃げたいのだったら、そこまで考えなくてはいけない。そういう意味で、ハックはもう大人だった。
そういうわけで、ハックは市民生活から逃げ、川の上のイカダ生活を始める。
ハックにとっては自然は脅威ではなかった。この冒険における危機というのは、すべて人間から受ける危機だった。
その道中で出会ったのが、先の養子家で使役されていた黒人奴隷のジムだ。彼は自分が売られるのを危惧して、
主人の家から逃げ出してきた。当時、奴隷の身分で逃げ出すことは窃盗罪に当たった。自分で自分を盗んだのだ。

 

ハックは今後ジムという荷物を抱えることになる。もちろんそんなことは言わないけれど、自由ではない。
逃亡奴隷は奴隷制のない北部へ向かわなければならないのだが、ミシシッピ川は南に向かって流れている。
川の上の生活は好きだけど、ジムと川で下れば下るほど南に向かうことになる。最後には逃げ場がなくなるのだ。
そして遂にジムが捕まってしまう。このままだと連れ戻されて、別の場所に売り飛ばされてしまう。
その場面がヘミングウェイも褒め称えた、黒人奴隷に対する葛藤だった。つまり逃亡奴隷を助けるということは、
共謀罪、もしくは窃盗罪になる。ハックは市民生活が嫌いだけど、野生児ではない。社会倫理は持ち合わせていた。
ハックは迷う。罪を犯して地獄に堕ちるか、自由に戻るか——「ようし、こうなったら、おれ、地獄へ堕ちてやれ」

 

ここでハックルベリー・フィンは、当時の法律、倫理、常識に真っ向から立ち向かう判断を下したのだ。
つまり彼は社会の決まり事に抗し、自分の倫理コードに従って決断をしたということだ。
この決断だけで文学史に残る価値はある。その後の二人の結末はご都合主義的なところがあるのだけれど。
余談だが、黒人を奴隷にしてもいいと喧しく叫んでいたのはどんな人たちだったか。これがプアホワイトだった。
あいつらは自分らよりも下の階級であるはずなのに、あんなに豊かで楽しそうなのは許せないという妬みの心理。
俺たちは白人なのに貧しい。だから黒人の身分なのに自由になっている奴らが許せねえ。こういう論理なのだ。

 

 

十一限目、ガルシア=マルケス百年の孤独

ガブリエル・ガルシア=マルケス(1927-2014)は、20世紀後半に活躍したコロンビア作家。
百年の孤独』(1967)は、まだこんなことが小説で出来たのか、と衝撃を世界に与えた小説だった。
つまり20世紀前半の『ユリシーズ』と『失われた時を求めて』で、小説にできることはすべてやり尽くした、
これ以降の小説は縮小再生産でしかない、というのが文学界に通底していたからだ。
もちろんフォークナーはいたし、ナボコフも登場した。だが、『百年の孤独』の衝撃はその比ではなかった。
それは南米という過去の遺産から無縁と思われた場所から、それまでの西欧的手法とはまったく違う技法を用いて、
しかもこれほど面白い、という小説はなかった、この衝撃である。

 

神話とゴシップが小説の起源だとすでに述べたが、百年の孤独』のベースにあるのは「民話」である。
「神話」と「民話」の違いは何か。神話には神様や英雄が出てきて、人より一段階高いものとして崇拝する。
民話では語り手と聞き手と登場人物が同一の地平に立っている。人は彼らを敬ったり崇拝することはしない。
浦島太郎のようなものだ。そして浦島太郎のように民話は小話で、長い話には到底耐えられないと考えられていた。
百年の孤独』は新しい手法でその常識を覆した。長文を支えるストーリーと構造があり、ベースは民話だった。

 

これはマコンドという架空の町を舞台とした、ブエンディア一族の百年の歴史の物語である。
マコンドは一族が消滅するときに同時に無くなってしまう。この地上のどこにも存在しない町なのだ。
民話的な特徴として登場人物の描写に奥行きを出さないことが挙げられる。彼らの心理に踏み寄ることはしない。
西洋ではむしろこの心理描写が微細に極められていた。そしてその極限が先の二作品だった。
もう一つ『百年の孤独』が拓いた平野が、マジック・リアリズムという手法である。
これはやはり西洋の批評家によって名付けられた概念だが、もともとはボルヘスが得意としていたものだ。
だからラテン・アメリカの作家たちは、「そう呼んでも構わないが、マジックという言葉を強調してくれるな、
我々の側からすればリアリズムの方を強調して考えて欲しい。なぜならこれがラテン・アメリカの現実であるから
と反論した。つまり西洋の側からみれば「マジック」に思えることが、彼らからすれば「リアリズム」なのだ。

 

この作品構造はフラクタルだ、と言うのが池澤の説である。
全体が細部の形をしていて、細部が全体の形をしているのがフラクタルだ。
いくつもの短編によって編まれたのが本作であり、それを要約したとしても、部分を抜き出したとしても、
あるいは全体のストーリーとして眺めても、同一のエピソードのようにみえる(本当かどうかは確かめてね)。
そしてまた池澤が持ち出すのは「羅列性」というキーワードである。
並べていく、隙間なく言葉を並べていく。情報を並べていく。熱帯雨林の自然のようにびっしりと埋められていく。
その特徴は彼らは互いに連関し合っているが、一つの支配されたコードに沿って流れてはいないということだった。
兎にも角にも、私たちの非現実が彼らの現実であるというラテン・アメリカの世界観を知る入門書にもなるはずだ。

 

 

十三限目、ピンチョン『競売ナンバー49の叫び』

トマス・ピンチョン(1937-)はアメリカの現代作家。代表作に『重力の虹』。
『競売ナンバー49の叫び』(1966)は、これまでの九作とはまったく異なる物語だ。
まず主人公の成長、体験、人生を追うものではない、ということだ。彼女は導き手であって、彼女は主題ではない。
「謎」、「謎は本当にあるかどうかという謎」、あるいは「陰謀」、何か見えないシステムがアメリカ社会に
隠されているらしい。「らしい」という兆候が見えて、主人公は謎を追っていく。しかし最後まで確証はない。
しかし「ない」とも言えない。結論が出ない。どうにも宙ぶらりんの状態が世界の様相である、というのが主題だ。
あるのかないのか分からないのに、妄想に囚われ、固執している様は他人から見たら「パラノイア」である。
この「パラノイア」について、現代で一番面白い小説を書くのがトマス・ピンチョンだ。

 

主人公エディパ・マースは平凡な主婦で、ある日の午後、彼女宛に手紙が来る。
何年か前に付き合っていたピアス・インヴェラリティという大金持ちが死去したので、遺言の内容に沿って
形見の遺産を配ったりしなければならないが、その執行人に任命されたのでボランティアでやって欲しい、
という依頼の手紙だった。それも遺言だという。仕方ないので依頼に従って色々と動いていくうちに、
彼女は普通のアメリカ郵便組織とは異なる、裏郵便組織なる存在があるのではないかという疑念に囚われていく。
その兆候をいくつも発見する。同じラッパのマークを各所で見つける。何か大きな陰謀が影にあるのではないか。
その妄想に固執する彼女を外から眺めれば、立派な「パラノイア」ということになる。

 

その謎を追っている最中に、久しぶりに家に戻るともう何もかもが壊れていることに気づく。
信頼していた精神科医は発狂し、夫はLSDでおかしくなって家に立て篭り、弁護士は女と駆け落ちする。
何らかの圧力を感じる。それでも彼女は資料を集めて、情報を読み解いて真実に迫ろうとするのだ。
謎が謎を呼び、何一つ確証のないままに断片が積み上がっていく。どうにかこれをまとめようとすると、
すべてはイタズラではないかという気がしてくる。そういう思いに囚われる。別のパラノイアが芽生える。
彼女が欲しいものは謎の究明というよりかは、「ある」か「ない」か、そのハッキリとした証拠なのだ。
そして彼女は最初にラッパの透かしを見つけた、ピアス遺品の偽物切手を競売に掛けることにした。
もし大切なものなら組織が回収するのではないか。そしてその切手の競売ナンバーが49だった、という話である。

 

これが現代アメリカの様相だ。アメリカの民主主義は、すべて表で決めているように見せかけて、
実は裏で何かの権力システムが働いているのではないか。それを一般市民は知らないだけではないか、
全部が謎に包まれている。そうしたパラノイア的な市民感情を表出したのがピンチョンなのだ。
そしてピンチョンは表にまったく出てこない。作品は作者の手を離れ、それ自体が謎であり解釈だけが存在する。

 

 

十四限目、総括

スタンダールからピンチョンまで、18世紀から20世紀までの文学史を読んできた。
小説はその時代、その国の世界観の表現である、という仮説を立て、その変遷を辿ってきた。
変化が顕著だったのはどこだったか。現在に連綿とする世界観をいち早く書いたのは、メルヴィルの『白鯨』だ。
それまでの世界像は創造主がいて、彼から派生していく統制されたディレクトリ型(私はツリー型と呼びます)。
もう一つの世界像は単に事物が羅列され、それらが勝手に結びついている秩序なき世界、羅列型。
どうやらこっちに移り変わっている、というのが文学史を通して見てきた世界像の変化だ。

 

 

人間にはどうやら事象を関連付け、分類し、並べ替え、一つの脈絡に繋ぎ合わせたい、という欲求がある。
そうやって人同士を繋げ、思想を繋げ、神話のようなもので統一すれば、世界に秩序が立つと考えられていた。
それはどうやら違ったようだ。世界はもっと混沌としていて、もっと縦横無尽に繋がっている。
池澤が尊敬する日野啓三(1929-2002)は言う。「本当に君の心に焼きついているのは、それが世界と自分について
本当に新しい発見と驚きをもたらしてくれたものは、ストーリーだったか?  いくつかの部分だったか?
本当にきらめいて残っているのは、互いに無縁の切れ切れの偶然の場面ではないだろうか。その場面と場面との間は
忘却の暗黒。誕生から現在までを繋げるひと繋がりの何かなどは、無理にこじつける意外に存在しない」と。

 

日野はこう言うのだ。脈絡なんて存在しない、あるのはこじつけだけだ。
人間の秘めた性癖、混沌とした事象の中にストーリー性を見出したい、無意味なパターンに脈絡を見つけたい。
人間とは、小説とは、この両方の間をうろうろ行きつ戻りつしているものではないか。
たとえばテレビニュースというのは、即時的に伝えなければならないために綺麗な単純なストーリーを探す。
ましてや彼らがこぞって同方向からの画一的な情報を流す。人々は「そんなに単純だろうか」と内心思っている。
今やこの時代においては、綺麗なストーリーを描かない方が誠実なのではないだろうか。
そういうまとまった図は、欺瞞なくして描けないのではなかろうか。

 

 新聞を読む、偏っている。テレビを見る、信頼できない。まとめるために他方面からの視点を捨てている気がする。
そう思ってネットを見る。ここにはありとあらゆる視点からの考察が乗せられている。その意味では誠実である。
だからといって真実が書かれているかといえばそうではない。一人一人の発信者はテレビと同程度に信頼できない。
もちろん発信者も、自分の言うことがすべて真実だと思って発信しているわけではないだろう。
一つの考え方はマスメディアと個人メディアを同一に並べ、隙間を埋めるようにして全体像を描くというやり方だ。
未熟なりにもなんとか自分の図を描くことが、結局私たちのすべきことであり主観的には真実と呼べるものなのだ。
一個人の物語についてもそうだ。ごく普通の人間が一つの人格を統合することができない、そういう時代である。

 

今や抜本的な改革を目指して統一された原理を打ち立てようとすればするほど、そこからこぼれ落ちるものは多く、
どこか欺瞞めいたものを感じずにはいられない。もはや統一された理想の社会をみんなで目指す時代ではないのだ。
だから私たちはローカルでやらなければならない。総入れ替えをするのではなく、個々の問題には個々で応じる。
また人々を統一するものはない、というのは人は物語を失って社会の狭間に彷徨っている状態であるということだ。
「パンと見世物」、この即時快楽的なお金と娯楽の消費にしか希望を見出せないことを彷徨う状態という。
積極的に生きるということは、自分なりの理想に向かうことであり、それには世界像という地図が必要だ。
しかしかつて地図を与えてくれた権威はもういない。自ら欠片を集め、繕い、それぞれの地図を作るしかないのだ。

 

私たちがこの世界に生まれ、徐々に周りの情報を認識し、人に教えられ、自ら学び、世界を再構成しようとすると、
みんなが同じ物語を作るはずはなく、つまりみんなが見ている世界も、みんなが目指す世界も異なるということだ。
それでも人は人と繋がることはできるし、世界は縦横無尽に脈絡なく繋がっていく。そこに主の意志はない。
それぞれ自分の世界は持っているかもしれないが、しかし世界の全部を一望することは叶わない。
世界に筋立ったものはなく、どうやら混沌しかないらしい。その中でなんとか意味のある断片を見つけてきて、
意味のある形に繋ぎ合わせて、それを仕事としなければならない。そしてその物語は欺瞞であり、真実でもある。

 

世界の終わりを想像する方がたやすい


面白そうな本を買った。
映画、哲学、政治、経済の用語や文章が縦横無尽に目まぐるしく散りばめられ、
注意深く読まなければ(注意深く読んだとしても)、そこに何が書かれているのかまるで分からない。
しかし、何が書かれているかまるで分からなくとも、そこに含まれるメッセージの熱量を感じ取ったとき、
人は理解しようとして、知性や想像力を最大限に働かせる。
本書刊行後、2017年に自死した著者マーク・フィッシャーの叫びをレポートしたい。

資本主義の終わりより、世界の終わりを想像する方がたやすい——というスラヴォイ・ジジェクの言葉を引用して、
著者は「資本主義以外の存続可能な代替案を想像することすらできない状態」を資本主義リアリズムと呼ぶ。
想像することすらできない、とはどういうことだろう。
かつてマルクス主義思想や運動の批判が、もっぱらマルクス主義の用語を用いて行われたと聞いたことがある。
資本主義批判が、包括的な資本主義の制度を用いてしか成り立たないということだろうか。
ここで槍玉に挙げられるのは、新自由主義者ネオリベ)が金融危機の際、国家制度に頼ったという事例だ。

 

新しいものを無くして文化はどれほど生き残ることができるのか?
若者たちが驚きを生み出せなくなったとき、その先にはいったい何があるのか?
と、映画『トゥモロー・ワールド』からの警鐘を著者は読み解く。
挑戦も変更もされなくなった伝統に価値はない、ただ保存されるだけの文化はもはや文化でも何でもない。
文化は過去と現在と未来との相互作用である。
新しいものは現存のものとの相互関係において自己を定義すると同時に、
現存のものは新しいものに応じて自己を再構成しなければならない。
文脈を剥ぎ取られ、次の現実・文化に作用する若者の驚き混じりの視線なしに文化の持つ価値はない。

資本主義が持つ力は、文脈を破壊する。
あらゆる文化的オブジェクトに貨幣価値を付与できる「等価体系」の作用は、文化をただ消費させる。
あらゆる存在に値段がつけられ、 金銭的に価値があるかどうかで評価され、文化が経済へ溶解してしまう。
敬虔な信仰や騎士の情熱や町民の哀愁が、ただ一つ利己的な観点によってのみ視線に曝される。
ドゥルーズ=ガタリによれば、資本は原始社会や封建社会が「予め悪魔払いしてきた」醜態なのだ。

 

80年代に展開されたポストモダニズムの時代よりも、著者が呼ぶ「資本主義リアリズム」は深刻な状況である。
サッチャーの格言、「この道しかない(there is no alternative)」が資本主義リアリズムのスローガンだ。
資本主義がごく当たり前の事実過ぎるあまり、それ以外の選択肢と相対化できない。
一見メインストリームへの反抗に見える「オルタナティブ文化」などのカウンターカルチャーは、
今やファッションの一部となり、メインストリームに取り込まれ従属している。
カート・コバーンのような文化の担い手の悲痛な叫びこそが、欲望の対象となり、すっかり消費されてしまう。
成功は失敗を意味し、成功はシステムを強化する餌となり、どうしようもない倦怠感を彼らに抱かせる。
リアルの追求——妥協のない、音楽産業の側についたり、様々な層に届くためにメッセージを曲げない態度が、
それさえもが高い市場性を持ち、容易に資本主義のシステムに回収されることになってしまった。

 

映画が持つの役割の一つは、異なる生き方や世界を画面の中に発見し、想像力を働かせることであった。
ピクサーの『ウォーリー(Wall-E)』は、頽廃した人類の姿を描き、それは映画館にいる観客そのものが風刺の
対象になっているのだが、この類のアイロニーは、むしろ資本主義を助長さえしていると著者は述べる。
つまり、アンチ資本主義をこの映画は代弁してくれているので、私たちは安心して消費に励めるというわけだ。
資本主義がいかに苦しみをもたらすかを力説する道徳的な批判は、現在の状況を増長させるだけだ。
ここまでで、資本主義の批判の仕組みがそのまま資本主義のシステムに内包されてしまうという矛盾が、
現代の抵抗が、どれだけ絶望的で無力であるのかが伝わってくる。

 

真の政治的主体性を取り戻すとは、まず欲望のレベルにおいて資本に翻弄されている私たちの姿を認めることだ。
悪や無知を幻影的な「他者」へと振り払うことは、自身の関与に鈍感になるという悪手である。
心に留めておくのは、資本主義が非人称的な構造であり、かつ私たちの協力なしには成立し得ないことである。
資本は飢えたゾンビを生み出す装置であるが、それを死んだ労働に変えていく肉体は私たちのものなのだ。
しかし、それは個人の心構えによって変わることなのだろうか。

今日のイギリスの(日本の)学生は政治に無関心だという印象がある。
過酷な状況を前にして、運命を諦めてしまっているかのように思われる。
この状態は無関心や冷笑主義というよりもむしろ、「再帰的無能感」の問題であると著者は主張する。
彼らは快楽を求める以外何もできない(快楽主義=ヘドニズム)というのが特徴だ。
「何かが不足している」という感覚はあるが、それを快楽享受という形でしか捉えることができない。
規律制度の対象者であるという役割と、サービスの消費者であるという地位との間で板挟みにあっている。


学生に数行足らずの文章を読むように指示したとしよう。教員がもっとも耳にする苦情は「つまらない」である。
彼らを「つまらない」と思わせるのは、接続過剰のせいで集中できない——チャット、Youtubeスマホゲーム、
SNS、簡易食からなる即時満足的な果てしない刺激を中断させられるという不快に耐えられないからだ。
絶え間のない娯楽に接続され続けることは結果として、落ち着きのない、集中も専念もない状態をもたらす。
サイバースペースの資本は、彼らユーザーに常習性をつけることを目指す。
ニューロマンサー』のように、娯楽世界から離脱したとき、虫酸の走るような麻薬常習者の気分を味わうのだ。

 

スターリニズムから引き継がれたような、市場型スターリニズムという事態も起きている。
労働者のパフォーマンスを査定しようとする欲求によって、役所的な形式主義の膨張に巻き込まれているようだ。
そこでは労働者のパフォーマンスが直接評価されるのではなく、その成果の表象が比較の対象になる。
仕事の実際の達成よりも、むしろそれらしき表象を生み出すことに労力が費やされるのだ。
成果を測る手段である到達目標は、それが設定されるとすぐさま自己目的化してしまう。
教育現場では、具体的な学力(点数)が到達目標になると、試験に合格させることが教育の目的になるだろう。
つまり幅広い知識よりも、視野の狭い「演習問題」が学ぶべき対象となるわけだ。
医療現場では、少数の深刻な手術よりも、評価の対象になりやすい簡単な手術の成功率を求めるようになった。
株式会社が評価される仕組みは、「実際に何をしているか」よりも、
その企業が(将来)いかなる実績を示すかに対するイメージに寄るところが大きい。
つまり資本主義では、多くの仕事が広報・ブランディング・イメージ作りに費やされて行く。

 

この問題に対して、ジジェク大文字の他者(l'Autre)」というラカンが提出した概念を用いて言及している。
が、この概念がちょっとよく分からない。
大文字の他者とは、あらゆる社会的分野が前提とする集団的なフィクション、または象徴的な構造のことだ」
と説明されるが、この私たちが参照する仮想的人物をどう理解すればいいのか。
ここでは実体のない三人称(具体的な顔の見えない彼ら)、神なき時代の神、程度に理解しておきたい。
大文字の他者の特徴は、全知ではないということだ。むしろあまり知らない——と思われている。
例えば、政治的・社会構造の腐敗にいつまでも気づかないのは誰だろう。
欠点を知りすぎる国民ではないし、それを時間をかけて施行する役人でも官僚でもない。
これが仮想的な三人称、役人と国民のどこか間にいる大文字の他者である。

役人は国民を無知だと思い込み、国民は役人を無知だと思い込む。
この両者の食い違いこそが、「通常」の社会的現実を機能させている。
そして「大文字の他者はそれを知らない」と信じることがもはや不可能になったとき、支える制度は崩壊する。
過去には「大きな物語」が信じられなくなったとき、一つの時代が終わった。
現代でも同様に、「大文字の他者」を信じられなくなったときが制度の終わりである。
だからこそ企業はイメージ作りに腐心するのだ。
「ありのまま」を話そうとしたチェーンの宝石店経営者ジェラルド・ラトナーは、
自身が販売する格安宝石を「ゴミ同然」だと公言した。
この失言が企業価値を5億ポンド下げ、180店舗が閉鎖し、550人の従業員が解雇される事態にまで及んだ。
その宝石の個別の利用者は質が低いことを見抜いていたかもしれない。
しかし、そのことを皆(大文字の他者)が知ってしまった途端、虚構は一気に崩れ去ったのだ。

 

このメタフィクション的な不安を、おとなしい批判という形でテレビ番組は取り扱ってきた。
隠しカメラを用いたドキュメンタリー番組や、街頭インタビュー、政治的な世論調査は、
カメラ(その背後の視聴者)の存在が出演者に影響を与えているかもしれない、という不安を拭えない。
出演者は視聴者に媚びるために演技しているのではないか。何かしらの演出がされているのではないか。
その場合、それをありのままの「現実」と呼ぶことは難しいのではないだろうか。

役人が責任回避を免れる立場から享受する悦びを私たちは知っている。(規則ですから、私の責任ではありません)
役人とのやりとりに不満が生じるのは、彼らが自分自身で何も決断できないからだ。
すでに下されている決断を参照することしかできない彼らに、怒りの矛先を向けることはできない。
この官僚主義の関与否定の構造を見抜いたからこそ、カフカは重要な作家なのだ(『城』)。

 

この、顔の見えない大文字の他者によって評価され、彼らの意向を気にしなければいけないところに、
一つ現代の労働の虚しさがあるのかもしれない。
データ主義と監査文化の蔓延では、例えば講師たちは、自分の仕事がデータを照合し消費する大文字の他者
好印象を与えるために行われているという様子に不満を抱いている。
このデータは重要なものであるにもかかわらず、個別の詳細を欠き、監査の範囲外では意味を持たないからである。
彼らはいつでも監視されうることを念頭に行動するようになる。
しかし、評価基準になるのは概ね講師としての実力よりも、むしろ役人としての丹念さである。
管理職は「この道しかない」と主張し、「闇組にではなく、賢く働け」と勧める。
講師たちはこれらがもたらす研究上・教育上の意味の無さに対して抵抗している。
「監査レジームに終止符を打つことは、かつて奴隷制を廃止したことよりも不可能に思える」と、講師は皮肉った。

 

この時代、快活さや健康を保ち続ける唯一の方法は、批判的な反省性をほぼ完全に欠き、
官僚主義権力から受けた指令に冷笑的(シニカル)に従う能力を身につけている者に限る。
まじめに実行している監査手続きを、「本当は信じない」ことによって自己像に傷を負わずにいられるのだ。
意味のないことを疑いなく受け入れるというこの戦略はつねに、正気を保つための技術であった。
このような存在論的不安においては、忘却が適応戦略となる。
何か強い信念を抱き、葛藤しながら決断する者よりも、コロコロと適応する者の方が生きやすいのかもしれない。
このソフトウェアを更新するかのようなこの葛藤の無さは、ある種記憶の欠如である。
『ボーン』シリーズにおいて、アイデンティティーと記憶を巡る旅は、安定した自己意識からの逃亡と連動する。
マスメディアの話題は一週間ほどで忘れられて行くが、いちいちしがみついていたら変化に適応できないのだ。
一方で『メメント』のように、新たな記憶は敵、儚さ、舵取りできないものとして現れ、
患者は古いものの安全地帯を愛する特徴を持つ。新たな記憶をつくることができない、
これこそがポストモダンの膠着状態を一言で要約できる表現ではないか、と著者は時代の病理を読解する。

 

現代、大きな政府という亡霊は資本主義リアリズムにおいて必須のリビドー的機能を果たす。
それは、権力として作動することの失敗について責め立てられるためだけに存在する。
例えば英国の大洪水の被害の責任は、家を建てた建設会社や土地を選んだ市民より、
それら建設会社を止めなかった政府、地方自治体、環境庁への反感が強かった。
あるいは洪水対策への支出が不十分であったと批判が向けられている。
08年の金融危機の際、体系的な原因への注目よりも銀行家や政府への危機対応に関心が寄せられた。
政府、または不道徳な個人に焦点を当てることは、問題から目をそらす行為なのだと理解しなければならない。
執拗に政府を責め立てるのは自己欺瞞であり、それは今日全体的な統治者などは存在しないということ、
それに最も近いものは企業の無責任を引き起こす漠然とした利害関係だということを受けれ入れられない証だ。


このグローバル資本主義における中心の不在は、例えばコールセンターにしわ寄せが来る。
電話をかけてみればすぐ気づくように、答えを知っている者は誰もいないし、何かしてくれるわけでもない。
怒りは、はけ口を探すことしかできず、その攻撃は影響力を持つことはないだろう。
原因があるとしたら、個々人の悪者がいるのではなく、それを支える構造なのだ。
例えば企業や銀行のマネージャー層をすべて入れ替えたら、事態は好転すると考える人はいるだろうか。
そう思うのは、志を高くして管理職に就く彼・彼女らたちだけかもしれない。
しかし、彼らが権力のどんよりとした硬直化に飲み込まれるまではたいてい長くはかからない。
したがって、個々人に責任を押し付けるのは誤りだ。彼らはシステムに則っているだけなのだから。
行動の責任を問われるのは個人であるにもかかわらず、それらの不正・過ちの原因は組織であるという手詰まりは、
それがまさに資本主義の欠点を指し示すものなのだ。

 

中央政権を中身の欠いた亡霊とみなし、構造的原因とされる企業では多くの時間がイメージ作りに費やされる。
大文字の他者という実在しない誰か向けて取り繕われる仕事は空を切り、
愉快に生き抜くには外面的服従と反省性を欠いた忘却が必要である。
学生は即時快楽の世界に常時アクセスし、しつけをする父親は役目を果たせず、
それに代わる教師も市場的評価と役所仕事とに板挟みになり、その役目を負うことはできない。
市民の不満はまず政府へ、次にコールセンターへとつながるも、それで何か解決することはない。
私たちは、これら問題が孤立した偶発的なものではなく、単一的な原因による作用だと示さなければならない。
それを個人の問題として責任をなすりつける限り、そのリアリティはいつまでも明かされないだろう。
その原因とは——資本である、と著者は言う。資本に対して戦略を立てる必要があるのだ。

実在するのは一人一人の身体のみである——身体性を取り戻さなければならない、と本書を振り返って思う。
本書の主張は、「この道しかない(There is no alternative)」に
→「この道しかないのか(Is there no alternative?)」と疑問符をつけることだった。
精神分析の用語や、後期資本主義に対する知識を欠いているので、どこまで彼の議論についていけたか、
どこまで資本主義を問題の原因として捉えていいのか今の私には判別がつかない。
しかし、この資本主義の中でいかに立ち振る舞うかということだけを考えている限り、
それはある種の思考停止であり、諸問題から目を背け続ける行為であることは理解できた。
知識不足を補って、彼の絶筆に今一度耳を傾けたい。

  

資本主義リアリズム

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おみやげ関係とか贈与論とか

 「本当の友達が欲しい…」17歳の女子高生に鴻上尚史が助言した「おみやげ」関係とは? が巷で話題になっていたようなので、読んだ。女子高生、悩みは学校が楽しくないこと。五人グループに属する女子高生が、私なんていなくたっていいんだ、と疎外感を抱く。しかし彼女は一人になるのはイヤで、同時に本当の友達が欲しいと思っていた。

 

 回答者の鴻上尚史は、彼女に「本当の友達が欲しい理由」を尋ねる。もし「私がみじめになるのを回避するために友達が欲しい」のなら、そこに本当の友達はあらわれないと諭す。そして、「孤独から逃れるためだけの人間関係に属する苦痛」と「教室で一人になるみじめさ」とを天秤にかけ、どっちの気持ちがよりイヤかを考えさせる。続けて氏は、人間関係において「おみやげを渡し合う関係が理想だ」と言う。「恋愛も友情も、おみやげを互いに渡し合う限り続いて行く」だろう。そこで自分はどんなおみやげを渡せるだろうか、と考える。それには相手に興味を示し、相手を理解しようと努めることだ。そうして相手の気持ちを考え続ける人の前に、本当の友達は姿を見せるのだ。

 

 と、いうわけで、素敵な回答である。とくに納得するのは「人間関係はおみやげを渡し合う関係が理想だ」とするところ。「理想」と言わず、人間関係の「基本」とさえ言い切っていいかもしれない。相談に関して、上記の回答で過不足ないだろう。あとは彼女がアドバイスを受け止め、実行するか否かである。以下は記事にかこつけた蛇足。

 

 

 おみやげ関係の話を聞いて、私が思い出すのはマルセル・モースの『贈与論』、マリノフスキの『西太平洋の遠洋航海者』、クロード・レヴィ=ストロース、そして彼ら人類学者を紹介してくれた師・内田樹の「贈与論」である。モースの『贈与論』を読むと、冒頭にしてスカンジナビアの古代叙事詩が引かれ、「夜は互いに武器と衣装を贈って相手を喜ばせなければならない。互いに贈り物をし合う友同士がいちばん長続きする」という言葉が綴られる。

 

 しかしモースのこの論考は、「贈ること」に関する研究よりもむしろ「お返しすること」に主眼が置かれている。「受け取った贈り物に対して、その返礼を義務づける法的経済的規則は何であるか。贈られた物に潜むどんな力が、受け取った人にその返礼をさせるのか」と、モースは研究趣旨を説明する。贈り物をされると、何かお返しするまで気持ちが片付かない。この気持ちの片付かなさが、人を人たらしめていると人類学者たちは口々に述べている。

 

  たとえば「おはよう」と挨拶されたら、「おはよう」と返すまで気持ちが落ち着かない。「おめでとう」と祝福を言祝がれたら、「ありがとう」と感謝の意を伝える責務が生まれる。「死ね」と呪いの言葉を投げられたら、本当は同じ言葉を返してやるまで気が済まない。物や言葉以外にも、たとえばアイドルのひたむきな努力に励まされたり、好きな人の顔を見ただけで気分が高揚したり、逆に嫌いな人の挙動一つひとつに不快な気分を抱いたとき、直接的にしろ間接的にしろその人に贈り物を返したい欲求に苛まれる。これが共に生きる人類の共通項である、と。

 

 大切なことは、贈り物にその価値を賦与する決定権は受け取り側にあるということだ。人類学者の言葉を引いて、うっちーはそう述べる。贈与の意味は、受け取っちゃった側の負債の中に存在する、贈り手の内には無いのだ、と。同じ贈り物、同じ言葉でも、受け手によってそれの持つ意味は変わってくる。そうして受け手が義務を返済し終えたとき、事後的に送り主はその価値を知る、というプロセスが贈与の、ひいては経済のサイクルだと言うのだ。

 

 面白いのは、等価交換、特に貨幣のようなすでに両者に価値が共有されたものを介する取引きには、そこで関係がストップしてしまうという特徴を持つことだ。事務的に商品と貨幣を交換するコンビニ店員に、あるいはスーパーのセルフレジに、私たちは何の気持ちも抱かない。商品以外に何も受け取らないし、後腐れがない。この貨幣を介した取引きが人類の経済を爆発的に促進させたのは改めて言うまでもないだろう。この色のない貨幣を使って、私たちは誰とだって交換ができる。何せ貨幣以上の返済義務を負うことはないのだから、これ以上関係が続くことはない。

 

 だが、贈り物というのは等価交換のことではない。贈り手が贈与するのは、その場では価値のよく分からないものである。その贈り物に勝手な価値を見出すのは受け取り側であり、受け取り側が価値を創造して返礼するのである。そして身に余る返礼に対してまた贈り物が返される。こうした不均衡の価値の交換が人間関係を基礎づけている、とこうした贈与に対する思い違いがコミュニケーションの根幹を為しているとの説明に私は強く納得するのである。

 

 うっちーは教育者であるので、「働くこと」と「学ぶこと」についても贈与論に即して論じている。曰く、教育というのは非対称な営みである。先生が何かすでに価値の決まったものを、生徒の勉強時間や両親の出資と引き換えに授ける、そんな即物的なものではまったくないということだ。贈与論の文脈で言うならば、教師の身勝手な贈り物に価値を見出すのは生徒の役目なのである。教わってから何年、何十年経った後かもしれない。その瞬間はある日突然やってきて、ようやく手渡された物の価値に感動するのだ。それは生徒の勝手な思い違いかもしれない。それでいいのだ。その落差が先生と生徒の関係を生み出すのである。それは等価交換では決して生まれない師弟関係なのだ。

 

 働くことはどうだろう。働くことの価値もまた労働者の中には存在しない。その働きが「贈り物」だと受け取った他者がいてはじめて価値が発生するというわけである。だからそれが労働であるかどうかは事後的に決定するのだ。ゴッホの絵画は、彼の生前にはただの落書きとしてみなされた。死後、評価するものがいて、欲望する他者がいて、ようやく彼の絵画に価値がついたわけだ。これが贈与論に即した労働のプロセスである。したがって言われたことを粛々とやるだけの労働者——つまり労働を賃金との等価交換としかみなさないものの前に繋がりは生まれないのだ。

 

 最後に友人関係について考えてみたい。鴻上氏の言うとおり、相手の気持ちを考えて、おみやげを渡すような人の周りに人間関係は生まれる。それは四半世紀生きてきた実感として納得である。新しい場所で人間関係をつくろうと思ったらそうするのが大人のマナーだろうし、子どもが生まれたら「そういう大人になりな」と言うかもしれない。ただまあ、結構いいかげんなことを言うが、人には内向き・外向きの性格がある。内向きとは自分の中に評価の軸がある人のことで、外向きとは自分の外に評価の軸がある人のことである。クラス内分布は50対50としておこう。

 

 件の質問者に対しては、氏の回答がパーフェクトである。だが、私のような内向きに服を着せたような人間には、学生時代なんか、もっとわけの分からないおみやげをぶつけ合って遊ぶことも重要だったりする。なぜなら、好きをぶつけて内なる価値を発見することも学生時代の果たすべき役割だからである。それで多くの友達が離れていったとしても、たった一人残るかもしれない。人間万事塞翁が馬、処世術は30歳までに身につければいい(暴論)。

 

 「孤独から逃れるためだけの人間関係に属する苦痛」と「教室で一人になるみじめさ」というのは、私が言うなら「外向き・内向きどっちか考えてね」って話になる。大人になれば、自分の魂の籠った創作は自分の世界観100%、それ以外の場では人を慮るというバランス調整が内向き人間にもできるようになる。学生時代ってのは、人間関係を構築すると同時に人と衝突して自分の価値観を推し量る場所でもあるから、好きに贈ったらいいんじゃないかしら。

 

 

*参考文献
マルセル・モース『贈与論』2009 筑摩書房
内田樹「働くことの意味なんて、上機嫌に働いている人だけしか分からないもの」2009 文藝春秋日本の論点 2010』収録
内田樹『街場のメディア論』2010 光文社
内田樹『呪いの時代』2011 新潮社

好きなものと通り過ぎるものについて

 ワンルームの扉を開けると陽が山脈に落ちようとしていた頃で、夕闇の境、仄かに昏い温度に伸ばす腕が止まる。日日に好きな瞬間が二度ある。それがこの陽が沈むときと、再び山から姿をみせるときだった。
 ふと四季がある街に住みながら思うのは、一日でも一年でも一生でも変化が訪れることを期待してしまうことだ。変化を好むことは人間の本能かもしれない。魅力的な女性は表情がころころと移り変わる。季節ごとに服装や髪型を鮮やかに彩り、気づく否気づかないで今日も男女は問答を繰り返す。

 

 変化に敏いことは、"いいやつ"の条件の一つかもしれない。女性の機微に疎く、自身も鉄面皮を崩さない固ゆで卵(hard-boiled)は、現代の括りでは"やなやつ"に属するばかりか、ともするとモテモテになれないかもしれない。
 春は桜見て酒・読書・インターネット。夏は陽を浴び、秋は月見、冬は炬燵に入りて酒・読書・インターネットを愛する我ら一族がおモテになる日は今世紀には訪れないの哉。いやいや、我らは外面の変化には疎いけれど、内面の変化には敏いのよ。諸行無常諸法無我だって諳んじれるんだから。私の機微には人一倍敏感なんです。

 

「こらこら、そうやって内と外、我らと彼ら、味方と敵にわかりやすく二分しないの」心のなかのお母さんが叱る。
「心の安寧を得るためにわかりやすい説明に執着しないって昨日約束したでしょ」危ない危ない……そうだった。
「だいたい朝に代わる瞬間が一番美しいように、敵味方の間に結ばれるものが最も美しいのは自明じゃない」
嗚呼、お母さま、しっかりオチもつけていただいて。それでは、今回の放談はじめます。*1

 

 

 今回のテーマは好きなもの/通り過ぎ行くものについての覚書である。心の掛け軸に「愛せない場合は通り過ぎよ」と掲げる私は、イヤな意味で心がざわつくものを避け続け、片っ端から好きなものを愛してきた。それはそれで機会を逸している自覚はあるので、すでに興味あるものや人から他分野に接続するようにしている。
 好きなら留まり、嫌いなら避け、それ以上に何とも思わずただ通り過ぎ行くだけの表現があった。そうして幾年か過ぎるころ、好きなもの/避けるもの/通り過ぎ行くものの傾向がみえ始めた。その現段階でのお話をしてみたい。

 

  • それ自体が目的じゃない作品は通り過ぎよ。

  相変わらず甲本ヒロトの話をする。ヒロトは「ロックンロールバンドが目指す場所はね、無いんだよ。……そこにずっといるんだよ。そっからどこにも行かないよ。それが東京ドームになろうが教室の隅っこであろうがそんなの関係ないんだ。ロックンロールバンドは最初から組んだ時点でゴールしてんだ。目的達成だよ」って言うんだ。
 俺が好きなのってどこまでもこうなんだ。歌い続けるパンクロッカー、弾き続けるギタリスト。死ぬまで手を止めない芸術家、漫画家、映画監督、作家、研究者、プログラマー。舞台に立ち続けるコント師、漫才師、噺家たち‥

 

 モテたい、カネが欲しい、今より上に行きたい、私を認めて欲しい。そう、表現ってこうした欲望を満たすための手段に過ぎない……なーんて思っている奴の創作になんて俺は絶対感動するもんか。人は他者の欲望に感染するって言ったのはラカンだったか、俺はこの台詞をわりと信用している。金持ちになりたいと思って発信する奴の周りには金持ちになりたい奴が集まるのだ。モテたい奴の周りには、私を認めて欲しい奴の周りには、何者かになりたい奴の周りには、そうした人たちが大挙して押し寄せるのだ。悪いことじゃない。俺は通り過ぎる。

 

 なぜ、マイケル・ジャクソンの『THIS IS IT』に感動したかっていうと、周りのダンサーの感動に感染したからだ。なぜ甲子園に感動するかっていうと、憧れの甲子園でプレイしている球児の感動に感染するからだ。
 俺が好きなのってそうだ。やってる奴がそれ自体に夢中になって好きで感動して出来た創作物。俺のゴールはここだろって。才能とか巧拙はどっちでもいいんだ。なるたけ功名心とかが隠れて混じりっ気のないものがあらまほし。
 感動したいんだよ、結局。他人の作った創作物に俺が求めるのは感動か、笑いか、はたまた絶望かそれくらい。

 

  • 自分の為の感動じゃない作品は通り過ぎよ。

  しかし、だからといって、作り手が観客の感動を意識して操作しようとした瞬間に、「あっ、いや違うんです」と言って僕は逃げ出してしまうのだ。それはもう商品だから。大衆を観客に想定して、「ほら、こういう展開がお望みなんでしょう」と差し出す手に僕は退く。その眼差しに過敏になる。商品は消費され、通り過ぎ行くものだからだ。
 作り手は自分が気持ちよくなるリズムを組み合わせて演奏する。それがすべてで、それが感動でしょう。初めから観客を向いた作品は売れるかもしれないけれど、僕の心はちっとも動かない。作り手の欲望に感染しないから。

 

 だってさ、僕らは作り手の"感動の仕方"に感動するんでしょう。作り手にも原体験があって、その打ちひしがれるような感動に向かって表現する眼差しに僕らは感動するんでしょう。その救いのない自己満足に感染して、次の表現者が生まれるんでしょうよ。PVとか、再生数とか、評価とか、他人の目ばっか気にして最適化された表現に毛ほども魅力を感じない。他人が求める価値を追って「こうすりゃアクセス数が伸びます」「収益が最大化します」と善意でツルハシを差し出す奴の表現が面白かったためしがないじゃんか。手前の興味は数字の上下しかないのかって。

 

 口が悪くなってしまった。とりもなおさず僕は自分にとっての感動を、価値を追い求めている表現者が好きだし、「表現することがゴールなんだ」って言い切って、自分の表現に感動している人が好きだ。
 個人的な好悪の話である。他人の好みまで口を出すつもりは毛頭ない。ましてやこれは表現者に限った話で、付き合う人としての好悪とはまた別の話である。ただ、僕個人の話をさせてもらえれば、たとえ10年、20年かかろうとも自分が感動した情景を自分が感動した手法に乗せて表現すれば、必ずこっちは感動するからさ。

*1:新たに本などを参照せず、思いつきを手癖だけで書く文章を当ブログでは以後、放談と呼びます。何だっていいんですが。

編集しながら生きている

 ある日を境に「人生とは編集である」と妄執し、それが即席に学んだ仏教思想と結びついているものだから、いま私の人生観はたいへん面倒臭いことになっている。酒の勢いでもなければ人に話すこともないが、良寛も「盗人に、取り残されし窓の月」と詠むような月が綺麗なこの秋の夜更けに、その私見について綴ってみたい。

 

 “Stay hungry, Stay foolish”というジョブズの2005年スピーチは、10年以上経過してもなお私たちを突き刺す何かを孕んでいるが、しかし私の心に深々と刺さった彼からのメッセージはむしろ"Connecting the dots."の方だった。
 誰が点を打つか、といえば現在の私である。誰が点を繋げるか、といえば未来の私である。いま私にできることは新しく点を打つことか、昔打った点といま打った点を繋ぐことしかない(一次元の私・二次元を想像する私)。聡く世情に明るい者たちは、さながら盤面のごとく将来の自分を思い浮かべるや布石を打ち、大事を成し遂げて行くが、果たしてそのやり方は私を幸せに導くだろうかと疑問に思った15の夜、爾来私はその布石の打ち方を棄てている。

 

 未来に成るべき高い理想を掲げ、その理想に立ち塞がる困難を分割し、そのための努力を積み重ねるというバブル時代のスクエニRPGを未だ唯一の人生の物語だと賞賛している人がいるならば、その理想を他人に押し付けた瞬間に平成世代の8割は離脱する——と思ってしまう。世代論を展開したいわけではないが平成を田舎の子供(私)目線で振り返ったときに、ネットとスマホサブカルチャーの進展しか見えなかったなあ、と思うのは軒並み産業が停滞、衰退するのを眺め、政治家も何か本質的じゃないところでマスコミと罵り叩き合い、学校教育もゆとりださとりだと飲み会の肴にされ、そりゃ宇野さんもサブカルチャーしか語ることがないような現況に対しての諦観である。

 

 今日、共通しているのは「どうやら未来は明るくないぞ」という認識であり、それを「俺が未来を明るくする」のか、「みんなの未来は暗いが、俺の未来は明るい」とするのか、「俺の老後まで逃げられればいい」のか、「どうせ未来は暗いのだから、今日を刹那的に楽しく生きよう」とするかは、個人の人生プランと生存戦略に委ねるとして、仮に今同じゲームをプレイしているとすれば、「共通のハッピーエンド及びクリア条件」が見えないゲームである。

 

 ここで矛盾するようだが、個人的には人生をゲームだとたとえるやり口は好きではない。受験は合格点を勝ち取るゲームだと勝ち誇る奴らも、恋愛は女を手に入れるゲームだと豪語する奴らも、仕事は金を掴み取るゲームであり、それには効率のいいテクニックがあると宣う奴らも、またそれに釣られる奴らもやはり好意を向ける対象ではない。
ゲームという言葉に含有されるのは、ゴール(勝利条件)とルール(制限)である。その両者が現れたとき、効率もまた姿を現す。ゴールを一直線に目指すゲーム=効率と定義してみれば、人生をゲームとみなすこの虚しさも分かるだろう。人生に最終目的地なんてない。ではサブクエストを次々とこなして行くことが人生の正体なのだろうか?

 

 私の問いは「ハッピーエンドはどこにある?(by大瀧詠一)」ということである。勉強を、恋愛を、仕事を、何かゴールに到達するための制限付きゲームだという主張に共感し得ないのは、それに到る効率を突き進めていった先に手に入るものの虚しさである。金、女、地位、学歴、承認、それらに執着することの空疎。それらを最小の努力で、もっとも効率よく求めようとする虚しさ。そこに立ち現れるのは、それさえ手に入れたら無条件で今の私より幸せになれる、という人間理解のダサさであり、またその欲望を利用して人々を煽る個人・産業のしょうもなさである。

 

 バブル崩壊後の世界、失われた20年だか30年だかに産み落とされた私たちが目にしたものは、物は溢れているのにどうも幸せそうに見えない、という矛盾であった。先行世代がロストしたものは、どうやら共通の目的(敵)であり将来への希望であろうことがなんとなく伝わってきた。この時代を総称して、「クリア後の世界」という玲司先生の言葉が一番しっくりきてしまうところに悩みの種がある。よく若者は〇〇を消費しない(〇〇にはスマホゲーム課金以外のすべてが入る)と言われるが、ギリ若者の私に言わせれば、先行世代がそれを真剣に楽しんでいれば、自然に子供は欲望するようにできている。若者の〇〇離れと定型文を使う前に、大人の〇〇離れに注目した方が面白い。

 

 クリア後の世界を生きる私たちは、第一に共通の目標を持たない。少なくとも物質的に満たされれば、精神的にも満たされるなどとは毛頭考えていない。ここに昭和平成の確執がある。ここでは「松本紳助」における紳助の言葉を引こう。「物を作って売るというのは——みんなでテレビが来たって大騒ぎして、それが二台売ろうと思ったら子供部屋にも置かなな、それでまたテレビもっと売ろうと思うから核家族にしていってんバラバラに。物を売るために。一人の人間にいろんな物を売って、もういるもんないやん。これ以上物を作って売るという時代やないんや。それが当たり前になった瞬間に人間ってのは不平不満なんねん。みんな持ってる、みんな行き渡ってる。だから幸せなんて感じひんねん。もう終わりやねん繁栄は。心の豊かさを求める時代や。自分だけの価値観を見つけて、心の豊かさを感じんねん。いまケイタイやとか、パソコンやとか、家やとか、車やとか、みんな同じ方向むいてるやろ、でも心の豊かさは各自ちゃうからいろんなもんできんねん。みんな意識してへんけど、だんだんそれに気づいていってん」

 

 こうした紳助の言葉は、彼だけでなくメディアを変えていろんな著者から言われてきた。次は情報を売る時代だ、なんて言う人もいる。影響力を伸ばす時代だ、なんて言う人もいる。「飢餓・病原菌・戦争」を克服した人類は次にどこに向かうのか、というハラリの『ホモ・デウス』(は読書中なので別の機会に)のような次世代攻略本が続々と出版されている中で、いま共通の目的に向かって若者を鼓舞するには無理がある。学校教育も何か次世代のゴールを目指して優秀な人材を人工的に生産しようとした瞬間に、適合しようとする若者とそれに抗う若者の間に取り返しのつかない歪みをつくり、その歪みは相互信頼の原理原則を破壊し、数年、数十年後の国家をボロボロにする。

 

 ここで言いたいのは『サピエンス全史』の力を借りて、人が一致団結するときには共通の目的や敵のような虚構を必要とすることに何ら異論はないことである。それを前提として、もはや現代は戦争や経済成長などといった全体をまとめ上げる分かりやすい共通目標はないということである。安倍政権を打倒しようと共通ゴールを持ち、一致団結する人たちがいる。しかし仮に打倒した後のビジョンはおそらくバラバラである。現代の首相が大変なのは、どんな公約を掲げてもそれは共通目標になりえないということだ。ならばバラバラにさせる方が現実的かもしれない。

 

 物を売るために、家族はバラバラになってしまった。かつては何もない我が家に電化製品を買ってくる父親は尊敬されていた。家族全員で豊かになろうという気概があった。いまや父親に尊厳はなく、他の父親と比較考量することでしか偉大さを測れないのならば、9割の父親は脱落するだろう。それぞれがスマホで自分の世界を楽しんでいる。
 会社でも一致団結の気配がない。各自豊かさの定義が違うのだから、飲み会に参加しない若者がいても不思議には思わない。だがあの手この手で上司と部下はコミュニケーションを図るべきなのは間違いない。社内における血流が良好でなかったら、社外に発生する関係も良好とは思えない。ただ、当たり前のやり方は見直す時期にきたのだ。

 

 ジョブズよりもまだ年齢が近いザッカーバーグの2017年スピーチでは、“I’m here to tell you finding your purpose isn’t enough.”という言葉が印象的だった。そして、“Creating a world where everyone has a sense of purpose.”と。凄腕の経営者を無条件で賞賛するほど意識は高くないが、彼の問題意識には納得できる。おそらく彼のような目的を創造できる人物が今世紀のリーダーになって行くのだろうし、オーディエンスのハーバード卒業生に求めていることなのだろう。それはおそらく国家規模では不可能なことで、GAFAのような大企業をザッカーバーグは求めているのだろうが、ちょっと市井の私たちにとっては現実味がなさ過ぎる。もっとミニマムなものを想像してみよう。

 

 ネット有名人の間でサロンというのがもて囃されている。ホストは何らかの輝かしいもので求心力を持ち、それら後光にあやかりたい人たちが、同じ能力を身につけたい人たちが、あるいは応援したい人たちが集まり、輪を成している。たとえばこれが一つの解答なのだろう。家族でも、会社でも、国家でもなく、その中間にある共同体。いまはまだおどろおどろしいけれど、弱者と身体性と相互扶助関係が備わったミディアムな共同体が誕生して行くことは、さもありなんといったところである。さながら心の豊かさ目的別の共同体という夢想である。

 

 目的というのは可能性のことだ。「可能性をもってこい、可能性をもってこい、」と叫ぶデンマーク人よろしく、絶望には目的で対応せよというのが賢者の教えである。しかし散々述べてきたように共通の目的がない世の中に突入していて、それに係る先行世代の目的の押し付けこそ厄介なものはない。欲望はバラけて行く。リーダーが担うのはまずは自分がご機嫌に生きているという事実であり、それから他人を下げ落とすこともなく、金・女・権力といった分かりやすい利益誘導でもない目標を掲げることである。生き生きとしたその立ち振る舞いに後進は触発される。

 

 人生とは今まで通ってきた道の轍のことである、という考え方がある。未来は明るく(あるいは暗くとも)、一歩ずつ歩いた軌跡を人生と呼ぶのだろうか。視線の先にゴールは見えているのだろうか。長い道のりも電柱を数えればいくらか気が紛れるように、中間地点を設定して歩くのだろうか。そうかもしれない。人間とは徒労の情熱である。
 一方で別の考え方がある。「人生とは目的によって編集できる」というのが私の人生観の最新バージョンだ。道元禅師の説教に「仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり。」という言葉がある。仏道というのは、自己を究明することであり、それはすなわち自己に対する執着を忘れることである。

 

 仏教の縁起は、自分という存在が、その時々の周囲との関わりによって移り変わって成り立つことを教えている。特にブッダは、固定的な我に執着することを戒めた。私もそれに賛同している。本を読む、旅行をする、人と会う、環境が変わる、新しい情報や関係によって私は常に変化している。それは再編集、といってもいい。今までの自分がすべてリセットされるわけではないからだ。むしろ私はこうであるという決めつけが、新しい関係の繋がりを阻む。私もいい加減思想が強い方ではあるが、新たな関係を阻まないこと、また新たな知見によって自分を再編集することだけは心がけるようにしている。あるいはブッダは(涅槃寂静以外の)目的に向かうことを戒めるが、それは目的に執着すること、何かを達成するためにこれをするという手段、そのための手段、さらにそのための……という執着の連鎖を止めなさいということだ。しかし、涅槃を求めて今すぐ出家しない程度には私は煩悩に塗れている。

 編集思想と仏教思想をどう掛け合わせるか。一つのやり方は、それを手段とせずに目的のように振る舞うことだ。何かするために、例えば幸せになるためにこれをする、という捉え方をしないで、その行為に徹すること(熱中すること)だ。それは現在の座標軸に点を打ち付けることである。その黒点はその瞬間においては意味をなさない。ただ熱中があり、それ自体が目的化した状態だ。そうして点を打ち続けていると、ふとあるとき惑星直列のごとく現在の行為に向かって繋がってみせるのだ。これを私の好きな喩えでいうとブリコラージュ(bricolage)的発想と呼んでもいい。もっと卑近な喩えをすれば、とりあえず何でも冷蔵庫にぶち込んでおいて料理するときに組み合わせるのだ。

 

 この辺りで何となく「人生とは編集である」という意味が伝わっただろうか。つまり人生の意味というのものは、現在から過去を振り返ったときに初めて意味を帯びるのであって、現在には熱中しかないというのが今日までの結論である。そしてこの結論というのも絶対的なものではなく、おそらく今後の出会いによって軽々と覆されるものだ。おいおいヘーゲル弁証法的発想だな、と思うかもしれない。いやむしろキルケゴール的発想に近いかもしれない。何だっていい。おそらく西洋は変わらない統一された自己という問題にこだわり、東洋はそれにこだわらないことを出発点に置いたのだ。今日はこの辺りで筆を置かせていただきます(パソコンを閉じます)。