友の死から始める仏教入門

(夏に書いたブログの残骸です)


 数年前、友人を亡くした。じとりと、夏に移り変わろうとしていた。僕らは二十歳で、まだ失うものなんてないと思っていた。それが人間で一番美しい季節だなんて誰にも言わせない。春には春の苦しさがあって、夏の苦しさには考えが及ばなかった。誰もが自分の存在の不確かさに怯え、踊り、ただ朱い夏を待つのが僕らの仕事だった。
 けれどもこうして夏を迎えてみると、過ぎ去った春がどんなに美しいものだったか、思い出さずにはいられない。

 

 その夜、一斉に掛ってきた携帯電話で彼の訃報を知るとすぐに地元行きの高速バスに飛び乗った。
「どうか嘘であってくれ」と席に浅く腰掛け、指を絡める。灰色の汗が流れ出す。暑い、寒い。まだなにも始まっていないのに、すでになにかが終わろうとしていた。けっして心地よい気分ではなかった。

 

 葬儀は彼や僕の意思とまったく関係なく、滑らかに進んだ。頬の内側を噛むとたちまち鉄の苦味が口腔に紘がる。絢爛に葬られた対岸で彼は死んでいる。彼は死んでしまった。涙は流れない。却って冷静な頭で、死の意味をずっと考えていた。もしこうしたことが何度もあり、誰かの死に鈍感になってしまったらどうしよう。けれども今回の死を正面から受け止めるには、今の僕はあまりにも過敏すぎた。そうだとすれば、僕は一生死に向き合えず惨めな思いをするかもしれない。人生で大切なものは山の荷物ほど多くはないけれど、それだけはどうしても避けたかった。
 結局のところ、あとに残されたものは、友との訣れを弔うのも祈るのも侭ならない、この葬儀場を、ただ彼の棺を網膜に焼き付ける若さだけだった。彼の死を彼以外の美談にしてはいけない、と脳内で叫ぶ。

 

  京都に戻り、かはたれ時、糺ノ森と呼ばれる賀茂御祖神社の参道を歩いた。その霊気溢れる原生林のトンネルは、僕に色々なことを思い出させた。例えば僕は死について知らない(ほとんどの人がそうだろうけれど)、僕は宗教について知らない(オウム事件同時多発テロから宗教に対する過剰な抵抗があったからだ)、そして僕は彼を弔った仏教のことも知らない——若い僕は、背後に控える複雑な仏教が彼の死の本質を見え辛くしているとも考えていた。それが良いことか悪いことかの判別は今もつかない。けれども当時の僕はなんだか煙に巻かれたような気がして嫌な気持ちにさえなっていた。大切なことは婉曲して受け手の想像に委ねる、というのが宗教のイメージかもしれない。

 

「私たちがあることを知らないのは、それを『知らずに済ませたい』という努力の成果だ」と、十代の頃に出会った師は言った。そうだとしたら、僕はずいぶん長いあいだ死や宗教から目を背ける努力を続けていたことになる。
 僕は彼の死をきっかけになにかが変わらなきゃ嘘だ、と思った。なにが嘘なのかは分からない。けれども僕はとりあえずなにか始めなければならないと思っていた。結局のところ、僕は彼をうまく弔いたかったのだ。

 

 仏教に関心を寄せ、そのアンテナを伸ばし始めたのはそれからのことだ。
 偶然手に取ったユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』には、仏教に対するこんな記述があった。
「仏教によれば、苦しみの根元は苦痛の感情でも、悲しみの感情でもなければ、無意味さの感情でさえないという。むしろ苦しみの真の根源は、束の間の感情をこのように果てしなく、空しく求め続けることなのだ」
「喜びの感情を追求するというのは、何十年も浜辺に立ち、『良い』波を腕に抱きかかえて崩れないようにしつつ、『悪い』波を押し返して近づけまいと奮闘するのに等しい。来る日も来る日も、人は浜辺に立ち、狂ったようにこの不毛な行ないを繰り返す。だがついに、砂の上に腰を下ろし、波が好きなように寄せては返すのに任せる」

 

 こうした文章が、徐々に僕の仏教観を氷解していった。もしかすると仏教というのは僕が想像していたようなものではないかもしれない。次第にこの仏教を理解したいという気持ちに駆られた。そうしてマテリアルを拾い始めた。

 

 この文章は、仏教のことをよく分かっている人間が、よく分からない人間に向かって啓蒙するために書かれたものではない。そうではなく、仏教に関心を寄せ始めた人間が、そのよく分からなさをレポートする文章である。なにも知らないという状態から一緒に旅をして、ここまでは分かったけれどここはよく分からなかったね、で終わる文章である。僕と読者の隔たりは、僕はすでに仏教の関心の輪のなかに入っていて、読者はそれに巻き込まれたのだ。

 

 一本の菩提樹の下、結跏趺坐して禅定に入る。
 長く長く、静かなときが流れ、心に一点の曇りもなく、燃え盛る煩悩が消えた。彼は目覚める。
 以後二五〇〇年続く、仏陀(buddha=「目覚めた人」)の教えを仏教と呼ぶ。

仏教とは仏陀の教え

 紀元前五世紀頃、インドとネパールの国境付近に暮らす釈迦族、ゴータマ家の一男として出生したシッダールタは次代の王となるべく一族の寵愛を一身に受け、今生の歓びを集めたような不自由一つとない少年時代を過ごしたにもかかわらず、成人してもなお自らの生活にどこか満たされない虚しさを抱えていた。
 どうしてそのようになってしまったのか。なにを満たされないことがあるのか。
 一つは母の死による自己存在の動揺、一つは当時のインドにおける宗教観の動揺の所為である。
 実母マーヤーは子を産んだ七日後に没し、幼き王子は母の妹の手で育てられた。親が一人欠けているというのは、自らの存在根拠が一つ欠けているということである。彼は幼い頃からこの欠落を埋めようと「生」と「死」についてあれこれと考えたはずであり、また都に出入りする人々を見て「老」と「病」について考えたはずである。こうした「生老病死」の問題に物質的な豊かさはなにも答を与えてくれない、というのが王子ゆえの気づきだった。

 

 古来から解答不能な問に暫定的な答を与え続けてきたのが宗教である。王子の誕生から遡ること千年前、インドに侵入してきたアーリア人先住民族ドラヴィダ人を武で制圧し、土着信仰の上にバラモン教を打ち立てた。音に聞くカースト制でもって人間を四つに分類し、面倒な仕事を低い身分に押し付けることで自らは宗教的探求に熱を傾けたのだが、口伝により継承された聖典ヴェーダは、次第にバラモンにとって実に都合のよい中身となっていった。
 時は下って前六世紀、インドは戦乱十六大国時代を数える。マガダ、コーサラその他十四の大国が台頭するに連れ部族は王国となってかたまり始める。血が流れ、都市部に人が集い、商業が盛んになり、人々は宗教の基盤について——ひいては己の存在について疑問を抱くようになる。というのも、我々は我々の存在を共同体によって規定されるからである。社会が安定しているとき、あるいは自己が安定しているとき、我々は我々が何者であるかについて悩んだりしない。これは一般論だ。ところが、外部から別の価値基準が従来の共同体を侵し、新しい共同体が形成される渦中、我々は新旧二つの間で自己が引き裂かれることになる。足下が崩れ落ち、天蓋が崩壊するような感覚に陥った人々はようやく従来の価値基準について疑いの眼差しを向けるようになる。ハラリ風に言うならば、古い「虚構」について人々は疑い始め、新しい「虚構」に向かって想像を膨らますようになった。
 と、いうわけで従来の共同体からもっとも身軽だったのが、大国誕生に伴う新興商人たちであった。市場において客がどの身分であるかは意味をなさない。曝される「個人」対「個人」の場で価値を持つのは富と力とそれを適える才覚だけであり、それを妨げる身分制度は人々を縛る鎖でしかなかった。商人たちは自己の存在を位置づける新しい思想の登場を心待ちにしていた。その時代の要請にしたがって王子は現れた。

 

 もっとも旧体制に目を向け、新しい思想を切り開こうとしていったのは彼が最初ではない。バラモン教の側からはヴェーダの注解であるウパニシャッド哲学が登場し、形式主義に陥っていたバラモン教を内部から批判した。例えば聖仙ヤージュニャヴァルキヤは梵我一如(梵=世界の根元と、我=自己の本質が同一)を唱え、無限の輪廻から脱する方法を説いた。こうしたバラモン教及び身分制度批判に呼応してあらゆる手段でもって自分の思想を確立し、人々に説いて回るものが次々と現れた。彼らを沙門と呼ぶ。沙門のなかには物質的な豊かさと社会規範を拒み、俗世間から離れた場所で修行すること(出家)を選んだものがいた。その流派の数は仏典では六十二を数え、ジャイナ経典では三百六三とされ、バラモン教以外の新しい思想を構築することは当時インドにおいてムーブメントだったのである。

 

 ——「輪廻」と「解脱」というインド思想において欠かすことのできないキーワードについてここで説明したい。時間は過去から未来へ矢のようにまっすぐ進み、その時間軸のある地点Aで生まれた個人は時代の流れとともに生を全うし、ある地点Bで死ぬ。ワン・アウト一塁ダブル・プレー、なにも残らない。
 ところが古代インド人たちはそう考えなかった。万物は流転する。人は死によって消滅するのではなく、過去生の行い(業)によって今生があり、今生の行い(業)によって再びこの世に生まれ、また次の生が始まる。この無限に続く連鎖を輪廻という。輪廻は苦しみである。今我々はたとえ輪廻を認めたとしてもその恐ろしさになかなか気づくことができない。輪廻は生に終わりがないことだが、それは永遠に満足に達せないことでもある。
 生に終わりがあるなら、我々は次々と欲望の対象を定めてそれを手に入れる努力をし、手にしたら次の欲望へ……という生き方も現実味がある。なにせゴールはなくとも時間制限はあるのだから、刹那の満足を追い求め、生をやり過ごすことができる。かつて僕は生の無意味さに悩んだとき、努めてこの生き方に同意することで人生をやり遂げる誓いを立てたことがあった。ところが古代インドの舞台は循環するフル・マラソンであり、生老病死というチェックポイントを通って再々々死、満足を求めて走る生は無限に続く。これが不満足=苦(dukkha)ということである。
 彼らはこの繰り返す苦しみから超越する状態を探した。この輪廻の無限から脱することを解脱と呼ぶ。古代インド思想の目的のほとんどはこの解脱である。

 

 さて、話はようやく王子に戻る。彼はこうした時代背景と死生観の上に立って、物質的な快楽はまるで意味がないと断ずるようになった。現状の生活に不満があるばかりか、巷間に流布する宗教に答があるとも思えない。彼は都を訪れる沙門たちの姿を見ながらいずれ出家したいと思いを募らせていく。
「世間の愚者たちは、自分が老い、病み、死ぬことを忘れ、他人の老、病、死をけぎらいするが、私は自分も老い、病み、死ぬことを思い、快楽を避けて修行し、静寂の境地に到りたい」
 王子に出家を決意させた逸話として「四門出遊」がある。
 ある日、王子は従者を連れて遊びに出かける。四門のうち東門から出ようとすれば老人に会い、西門から出ようとすれば病人に会い、南門から出ようとすれば死人に会い、かくして北門から出れば沙門に会うという話だ。老病死、避けることのできない苦しみを見て取った後に修行という道が示されるというこのエピソードには、これから王子が立ち向かう課題が明確に示される。
 二十九歳、とうとう城を抜け出し出家する。世間を離れ悟りの道を進むべく森の中へ分け入っていく。森の中にはすでに修行に取り組む沙門たちがいた。出家とは孤立無援の闘いではなく、世間と異なる生き方を選んだものたちの社会へと加わることを意味した。

 

 王子は師を求めた。彼が選んだのは瞑想の道であった。ここで出会うのはアーラーラ・カーラーマ仙とウッダカ・ラーマプッタ仙である。彼らはそれぞれ「無所有処」(なにもない境地)、「非想非非想処」(なにもない想いすらない境地)を説き、瞑想によってこれに達するとする。しかし王子は容易くこの境地に達するばかりか、この二つは解脱の途上ではあるが解脱そのものではないとして師の下を足早に去ることになる。
 王子が次に進んだのは苦行の道である。彼は師のいない状態で修行する独覚の道を選ぶ。五人の沙門仲間とともに美しいネーランジャー河にほど近い林で苦行に専心した。激しい修行だった。二十九年の豪奢を払拭するかのごとく無茶な止息と断食に熱心に取り組んだ。彼はこの苦行によって悟りに達したのだろうか。否、そうではない。
 苦行から六年が過ぎた。幾度も死の淵を彷徨い、かろうじて生き延びていた。だが悟りには一向に辿り着かない。次第に苦行の有効性を疑うことになる。悟れないのは苦行の方法か、苦行そのものが間違っているとしか思えない。
 彼が瞑想を捨てたのは、その目的に同意し得なかっただけでなく、単に瞑想を極めてもその技術が上がるばかりで解脱に達せないということであった。それならば苦行も同様に考えることができる。いくら体を痛めつけようとも、苦しみに耐えてみせる技術が上がるばかりで解脱には辿り着かない。ここで彼は苦行を放棄することになる。
 彼が捨てたのは単に無思考の極致を目指す修行法である。無の感覚に浸る瞑想や、身体を痛めつける苦行は、ただ感覚を鈍くしているに過ぎない。大切なのは、この世界の根本的事実をあるがままに観る(如実知見)結果として、すべての煩悩は消え、もはやなにもない極致に達するということである。件の方法は目的と結果を履き違えている。

 

 彼は河で身体の汚れを落とし、河の近くに住む村娘スジャーターから受け取った乳粥を飲み干すと、後に菩提樹と呼ばれる木の下に結跏趺坐した。苦行とは反対に、穏やかで肉体負荷の少い瞑想で、また心を無にすることを主眼とせず、この世界の一つ一つを確認していくのである。
 長い、静かな瞑想は、しかし内面では心を乱す悪魔と闘い、彼はこれに打ち勝つ。
 そして——四十九日後、竟にすべての風は吹き息み、煩悩の火は消えた。成道である。
 三十五歳の冬のことであった 。

 

仏陀は輪廻の流れを断つ 

 ブッダはなにを悟ったか、というのが次の問である。 しかし、「悟り」の梵語であるbodhiは「目覚める」という自動詞であることが指摘されている。したがって「なにを悟ったか」の問は正しくない。彼は長い禅定のあいだに、この世の一切を確認し、それを体験的に会得し、その結果目覚めた=悟ったのである。我々の次の問は、「彼はなにを確認し、会得したのか」という方向に向かう。この章ではブッダが確認した仏教の基本的な概念をみていきたい。

 

 先に全体的な結論を示したい。仏教の目的はこの世界の輪廻から「解脱」し「涅槃」の境地に達することである。そのために我々は目覚めなければならない。我々は普段の日常を生きるだけでは目覚めることはできない。なぜか。それは生活に染み付いた「癖」を習慣的に繰り返しているからだ。輪廻を断ち切るには、この習慣的な「癖」を断ち切らなければならない。これには行為だけでなく、ものの見方も含まれる。
 ブッダが確認したことは、この世の根本的事実と、それに伴う「癖」の一つ一つをあるがままに観ることであり、その「癖」を無意識レベルで止めたとき、竟に煩悩の火は消え、涅槃の境地に達するのである。仏教において修行が必要とされるのは、ただの理解のみならず心の底から「癖」を止めるということが「悟り」の内容だからである。

 

・縁起

 経験するすべての事物には原因があって結果が生ずる。ゆえに原因が消滅すれば事物は消え去る。この事物の相互依存関係のことを仏教では縁りて起こること、すなわち縁起と呼ぶ。
 縁起の一つの意味は、前述した「癖」が原因となって輪廻の苦しみが連鎖しており、すなわちこれを滅することで輪廻の苦しみから脱することができるということである。この理は十二縁起としてまとめられる。

 無明(根本的な無知/智慧のない状態)によって行(智慧のない行い)が生じ、その過去生の結果、識(誤った意識/識別作用)を伴ったまま現世に転生する。すると名色(心身や精神)、六処(感覚器官)、触(外部との接触)、受(苦楽の感受作用)はやはり誤ったものとなる。それが愛(渇愛)、取(選択)を生み、有(潜在力)となってまた来世に生まれ、老死する。
 ブッダは輪廻をこのように分析し、この循環を断ち切ることで転生のない涅槃の境地に辿り着くとした。このうち、第一に大切なのは無明である。最初のボタンの掛け違えが、すべてのボタンの位置を狂わせるように、根本的な世界の測り間違いは抜け出せない輪廻の環を描く。
 縁起の意味のもう一つは、諸行無常諸法無我という概念に関わる。

 

・無常
 事物はそれ自体で存在するのではないという縁起の理は、あらゆるものが一時的存在であり、常に変化するという無常(anicca)の相を導く。我々は事物を言葉によって固定し、事物本来の流れから切り離し、すべては移ろう存在であることを忘れてしまうという「癖」がある。およそ人間は不安定な存在に耐えられないからだ。
 そして無常であるにも関わらず、なにかに対してどうしようもなく欲望を、渇愛を抱いてしまうところにこの世の苦=不満足は現れる。老い、病み、死ぬという人間の無常をありのまま捉えず、これらを忌避し、若く健康に過ごすことに執着する在り方が苦を呼び込むということである。あらゆる事物に不変を求める欲望と、無常のあいだにあるクレバスは果てしなく深い。
 では、こうした真理すら無常であるのかといえば、その範疇に真理は含まないとするのが仏教である。無常が示す範囲は、我々の周りに生起する事物のことを指す。真理は外的要因によって生起するものではなく、それ自体で独立するので、仏教において真理は絶対なのである。

 

・無我
 あらゆるものが一時的存在であるならば、固定的な私は存在しない。というのが無我(anatta)の狭義であるが、今モニターを見ているこの私が存在しないと言われれば、どうも納得しがたい。無我とはどういうことなのか。
 そもそも古代インドでは生死を超えて永遠に不変な我(アートマン)という思想が根底にあり、これが輪廻思想と結びついていた。ブッダが説くのは、「不変な我」など存在しないということであり、これを盲信すること、つまり我執することを戒めた。なぜなら、我執は「私は私の支配下にあり、コントロールできるものである」という錯覚を生むからだ。彼はこうした極端な考えに取り憑かれることを嫌った。極端な考えの先に悟りの道はないからである。したがって、我は永久に存在するという極と、我は死んだら無になるという両極をともに否定するのである。
 とりあえずここでは、固定的な我は存在せず、一刻一刻と変化する流動的な我は存在するが、それでも変わらない我に執着しようとすることを戒める意味で無我という概念を理解したい。

 

・中道
 ブッダが拒否した二つの道は、物質的な快楽によって不満足を解消し続ける生活と、禁欲主義と精神修行によって不満足に鈍感となる生活である。これら二つの道の先に解脱はない。原因と結果の縁起法則に従って、解脱と過剰な生活は無関係である、というのが中道の一つの内容である。
 さらに、すべての生や物質に意味と価値とを認める「永遠主義」と、意味と価値を全否定する「虚無主義」という二つの極端な考え方も排除する。悟りの道は、両極のあいだに敷かれている。

 

四諦
 仏教思想は、上記のようなことを、ただ冷静に理解しさえすれば目的が果たせるというものではない。あくまでも実践するためのものなのだ。この実践の四段階を、彼は四諦にまとめた。諦は真理の意味を表す。
 一つ目、苦諦、生きることそのものが苦である。人は四苦八苦する存在である。我々は老い、病み、死に、愛するものと離れ、恨むものと出会い、快楽を、財産を、権力を求めて叶わず、心と身体がコントロールできず苦しむ。
 二つ目、集諦、苦の原因は渇愛である。渇愛とはなにかに渇き、それにしがみつくことである。苦から逃れようと抱いた欲望が、そもそも苦の原因となっていることを示している。特定の思想にこだわることも渇愛である。
 三つ目、滅諦、渇愛を滅尽させれば苦は消える。これが悟りの終着駅だ。我々は苦の原因を履き違え、あまつさえ苦から逃れようとして自ら苦の原因を招いている。それでは、どうすれば渇愛を無くすことができるのか。
 四つ目、道諦、渇愛を滅尽させるのは正しい修行である。それは八正道である。正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定がその内容だ。簡単にいえば、精神を集中させる状況をつくり(戒)、正しい精神集中を行い(定)、正しい智慧を持つこと(慧)で苦の原因は消え、涅槃の境地に達するというのである。

 

 以上をまとめよう。ブッダが生きた古代インドの時代、そこでは死んだものは生前の行い(業,カルマ)を引き継ぎ無限に生死を繰り返す輪廻思想が当然のように信じられていた。人生は苦である。何度生まれ変わっても永遠満足に達せない人生は苦しい。このような輪廻からどうやって脱出すればよいだろうか、彼は考えた。
 この世の現象はすべて原因と結果で成り立っている、というのが彼の発見だった。そこで輪廻を分析してみると、過去生の行いが今生の行いの起点となり、それが未来生に引き継がれ、その結果いつまでたっても輪廻から抜け出せないことが分かった。ならば原因を絶てばよい。このうちなんとかできそうなのが渇愛を止めるということである。渇愛を止めれば縁起のサイクルは崩れ、輪廻の外へ解脱できる。そこは涅槃と呼ばれる至福の極致である。
 卵が先か鶏が先かのような話だが、渇愛の原因は我々が智慧を持っておらず、したがって間違った道理に基づいた「癖」を繰り返すからである。つまり縁起の理法から導かれる諸行無常諸法無我の認識をしていないからであり、精神修行で心の底から、ブッダと同じ感覚を叩き込むのである。さすれば、渇愛を生む「癖」は消え、渇愛は消え、輪廻の原因は消え、解脱し涅槃に達するのである。
 こうしてまとめると、縁起という理法の重要性が分かる。縁起によってすべてが接続され、縁起によってすべてが切断されるのだ。これが今日までの個人的な仏教理解である。

大乗か上座部

 (後日公開)(いつか書こうと思って、書かなかった)

 

東へ、仏教は

 日本に仏教が公式に伝来したのは五三八年あるいは五五二年のことであり、何れにしても六世紀半ばには朝鮮半島から仏像と経文が送られている。仏教誕生からすでに千年も経っていたが、日本はまだ飛鳥時代にも入っていない。本来、宗教を必要とするのは個人である。しかしそれは綺麗事で、長い歴史を持ち、東アジアに影響力が強い仏教であるならば、個人の必要性云々より政治的に国として受け入れるか否かの選択に朝廷は迫られた。内政にも外政にも関わる選択である。残念なことに、仏教は崇仏派と廃仏派との対立を生み、豪族の覇権争いの道具となっていった。
 この争いに最終的に勝ったのが崇仏派の推古天皇聖徳太子である。特に聖徳太子の手腕によって、仏教が国内で政治的に受容されていく。中国、朝鮮半島に伍するためである。彼らと良好な関係を築き、また仏教に付する制度や建築技術に学ぶために採用したのだ。日本は急速に大陸の技術に学び、法隆寺などを建立するに至るのだった。 
 内政と外政のために政治利用された仏教だが、僧侶も国によって管理・運営される。国家のために民衆を教化する僧侶は、さながら公務員の姿であった。世俗権力まみれである。国を挙げた仏教受容は次第に実を結び、七五二年、東大寺大日如来が完成することで、国内外に仏教国の証をしかと刻んだ。

 

 しかし、仏教といえど僧の力が強まると貴族と結びつき、すぐ腐敗するのが世の常である。七九四年、桓武天皇は政治と宗教の距離をおくため、平安京に遷都する。こうして始まった平安時代に活躍するのが、最澄空海である。
 八〇四年、共に同船団で大陸へ渡った最澄空海は別々の仏教を学び、帰国後別々の宗派を開いた。以後登場する僧や宗派の詳しい説明は別の機会に譲るとして、平安仏教の特徴は国の要請と密教ということである。仏教伝来から奈良仏教に至るまで、日本の仏教はあまりに世俗にまみれ過ぎていた。仏教の研究は進み、どうやら本来の教えから離れているらしいことは分かってきた。そこで本来の教えを学びたい僧侶と、政治と仏教の癒着を解決したい朝廷の要請が重なり大陸に渡ったのである。したがって、まだ国のための仏教という考えは抜けないわけだが、来る時代に民衆のための仏教を準備したのだ。また密教は現世利益で即身成仏という特徴をもっている。
 さて、平安時代も中期から後期に差し掛かるころ、世に末法思想というものが蔓延る。これは仏教の堕落史観で、ブッダの入滅後一五〇〇年経つと仏教は形骸化し、修行に励む人すらいなくなる時代に突入するという説で、当時の大乱も相まって人々を不安にさせる原因になっていた。そこで登場するのが念仏を唱える浄土信仰である。
 平安の終わり、ようやく救済対象が国から個人へ変わる。武士階級の勃興と貴族階級の低落、それに伴う共同体の変化、新旧二つの価値観に挟まれる人々の不安、これらは仏教誕生時の状況と酷似していた。やはりこの時代、動揺する人々の不安を討ち滅ぼすような新しい思想が待望されたのである。

 

 鎌倉新仏教、その主題は個人の救済である。平安末から空也源信良忍らが念仏信仰を広め、法然が専修念仏の浄土宗を開いた。彼が起こした革命は、「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで、阿弥陀仏の極楽浄土に往来できるということである。これが民衆の圧倒的な支持を集めた。
 次いで法然の弟子、親鸞は「絶対他力」で阿弥陀仏を信じれば極楽往生すると説き、同じく阿弥陀信仰の一遍は「南無阿弥陀」さえ唱えれば阿弥陀仏を信じなくとも往来できると説いた。彼が空也に倣った踊り念仏は、盆踊りの起源となった。ここでトリビアルな知識を披露しても仕方がないが、やはり日本の年間行事と仏教は関わりが深い。
 日蓮宗は「南無妙法蓮華経」を唱えることを救済の道と説き、禅宗臨済宗栄西や、曹洞宗道元は、悟りとはすなわち座禅であるとした。このように鎌倉新仏教は、国や支配層のための難しい教えから、民衆のためのやさしい教えを説く、新しい仏僧の宗教的情熱が花開いた時代であった。そしてまた民衆はこれを広く受け入れたのだ。

 

 室町時代、戦乱の世にあってか宗派と民衆が結びつき武装化し、浄土真宗などは一向一揆を各地で起こす。大名の覇権争いに翻弄され、一時は彼らを脅かすほど力をつけるが、織田信長延暦寺焼き討ちなどで弾圧されるに至る。
 江戸時代に入ると徳川家康は中央集権的な政治を目指し、仏教もその支配下に置かれた。宗派は本寺と定められた寺院を頂点としたピラミッドを描く組織に編成され、キリスト教徒の禁制を目的に、日本人全員がいずれかの宗派に属することを義務付ける檀家制度が作られた。戸籍と寺院とが結びつき、各宗派は新たな信者を獲得するために布教する必要がなくなった。その結果、葬式仏教と呼ばれる日本の仏教体制が始まったのである。
 その後、仏教研究が進んだり、明治の廃仏毀釈が行われたり、新興宗教の創立や西洋のニューエイジ運動によって仏教のスピリチュアルな側面に光が当たったりと、日本仏教は様々な局面を迎えるが、その歴史については、ここでキーボードを打つ手を止めることにしたい。

 

 日本における仏教の文脈は、まず政治の道具とされ、護国を願われ、個人の救済は鎌倉新仏教を待つことになる。修行によって悟りを開くブッダの教えを遠く離れたが、それでも仏教は多くの人を救ってきた。インドの輪廻思想と同じように、日本古来からの信仰では、死後に黄泉の国へ行くという思想が信じられ、そのため極楽浄土の浄土宗が広く受け入れられたのだろう。日本人にとっては、輪廻から解脱できることよりも、極楽浄土に往生することの方が大切なのだ。土着信仰と外来信仰が混ざり、その土地の人々を救うこと、それも宗教の一つの形なのかもしれない。

 

 

旅の終わりに

 たった今、彼の墓参りから帰ってきた。
 彼の死に始まる一連の仏教入門は、やはり僕にとって彼への弔いそのものだった。
 僕もまた彼の死に執着することなく世界を移ろうのだ。
 すっと澄み渡る心に、一点の曇りもなく、墓前に手を合わせた。

 

 

(2018.07.31 初稿)

(2018.08.15 改稿)

 

参考文献

渡辺照宏『仏教 第2版』1974 岩波書店
宮元啓一『わかる仏教史』2001 KADOKAWA
ひろさちや『はじめての仏教』2004 中央公論新社
保坂俊司『史上最強 図解仏教入門』2010 ナツメ社
呉智英『つぎはぎ仏教入門』2011 筑摩書房
魚川祐司『だから仏教はおもしろい!』 2014 Evolving
魚川祐司『仏教思想のゼロポイント』 2015 新潮社
ドーリング=キンダースリー社『宗教学大図鑑』2015 三省堂

佐々木閑,宮崎哲弥『ごまかさない仏教』2017 新潮社
南直哉『超越と実存』 2018  新潮社